目次
アパート一人暮らし、手取り12万のフリーターが、自分の母方の家族が皆亡くなり、生まれ故郷の町の母の実家を相続しました。(父は再婚して義母と暮らしています。)
相続の妬みから来るいじめ幼い頃から信用していた近所の方々から受けて、人間の心の貧しさや卑しさ、醜悪さに一度は心を閉ざしました。
(主犯の老婆が「ああいうのが人生楽に生きていて許せないのよ。」とわざと我が家の物置(現在の車庫)の前で家の中に聞こえるように言った。
それ以外にも他の生まれた頃から信用していた方達の家の前での私への日常的な陰口悪口。どれも相続前に暮らしていた頃はなかった。相続してから私だけ近所中からいじめのターゲットにされました。)
自力で立ち直った経緯、役に立った考え方の実践結果などを書いています。
理不尽ないじめによって頭の中が復讐や怒り、恨みで染まってしまった方の、人生の見直しのきっかけになる記事が見つかれば幸いです。
「お前は家も金もある!余裕があるからそんなことが言えるんだ!」と思われる方も多いかもしれませんが(実際アパート暮らしの頃は私もそういう思いが強かったです。)
私自身、一人暮らしでお金がない頃を経験しており、その頃は心が荒みそうになったことが何度もあります。
来月に何千円残るだろうか、そんな不安を抱えて生きていました。
その経験を踏まえ、断言します。お金だけいくらあっても人は幸せになれません。お金や社会的地位などとは別に、自分自身の人生の目標や幸せを見つける必要があります。
私がこのブログを立ち上げたのも、私と同じように理不尽ないじめに苦しむ方が、「自分だけがこんな目に遭っているわけじゃない、同じような目に遭っても頑張って生きている人もいる。」と気づいて、早まったマネをしないでほしいからです。
現実にありえないくらい酷い理不尽ないじめもあると誰かに知ってほしかった
相続してから私は生まれた頃から信用していた、大人だと思っていた人たちから理不尽ないじめを受けました。いわゆる村八分です。
自分の身内が全て亡くなり、一人になった広い我が家。少し寂しくとも周りは信用している人たちだから、何とか生きていけるだろうと思っていました。
その信用している人たちは、私の陰口や悪口を毎日のように続け、勇気を出して苦情を言っても、主犯と取り巻きは一旦は止めても再開し、3度目の苦情を言いに行ったとき(すでに6年も一方的ないじめは続いている)に居留守を使われ、ついに我慢の限界を迎えた私は怒鳴りつけました。
それが彼らに付け入るスキを与え、町から私を追い出した方がいいと自治会組長に進言されたのです。
主犯や取り巻きはもちろん、仕方なく加担したような人達も、相続から6年、誰一人として私に詫びの一言もないどころか、「私が苦情を言ったから皆おかしくなった。お前のせいだ。」など言いだす人もいるのです。
私が苦情を言えるほど立ち直るまでに、私は何度も自殺しようとするほど苦しんでいるし、自分が誰だかわからなくなるほど混乱するほどのストレスや、頭の中で考えていることが声に出てしまったり、突然叫び出すなどの奇行をするほど酷いストレスに苦しみました。
固定の場所へしか行けないという思考の縛りなども発生し、吐き気を抑えながら無理矢理克服しました。
そこまで苦労してようやく自由に外出ができるまで回復しました。一方的にそんな目に遭わせた加害者達からは、誰一人一切の詫びの一言も謝罪もないどころか、「私が悪い!」など言い出す始末。
今はさらに悪化して危険人物、犯罪者扱いをされています。ただ自分の家で暮らしているだけなのに、です。
軽いバイトがようやく出来るまで回復したのも、2020年頃です。5年かかりました。近所の人々に本当に人生を滅茶苦茶にされました。
いくらお金があっても、時間があっても、心を壊されたら何もできません。何の意味もありません。
私は家族の残してくれた家を大事にしているし、この町で生まれた私にとって思い出の家でもあります。
生涯をこの家で過ごしたいと思っていましたし、家族もそのつもりで残してくれたのです。しかし、近所の人達の理不尽かつ一方的ないじめによってとても住みにくくなりました。
近所の人たちは私が外に出るとすぐ家に引っ込むという完全な村八分をしてきます。
ちなみにそうなったのは、苦情を言った後も誰一人詫びの一言すらもない上、まるでいじめなんて何もなかったかのように接してきたので(一方的に攻撃された被害者がこんな事をされて相手を信用できると思いますか?)、私の中のわだかまりは一切消えていません。
大人であり親、まして自分達も孫がいるくらいの年齢までなって、これから相続も起こるだろう当事者たちが、先に相続が起こった人間を皆でいじめのターゲットにしたのです。
主犯と本質的には変わらない思考の人間達だと理解したので、自分の中ではすでに敵(いわゆるフレネミー)だと考えています。
近所16軒中14軒あってほぼ皆こんな感じです。(あまり関係ない方も主犯が吹き込んだのか、空気を読んで村八分に参加です。2軒はほぼ見かけず。空き家か不在?)
私にも悪いところはあったかもしれません。
ただ、この近所の人々は話し合いすらせず、一方的に私の知らない所で結託し、私一人を皆で排除しようとしてきました。
こんな相手に話し合いなどもはや無意味だと理解しました。
仮に場に引き出したとしても感情論で喚くだけで私の意見など一切聞かず、自分の意見を通すためにひたすら喚くだけでしょう。実際主犯に苦情を初めて言いに行った時がそうでしたから。
味方は一人もいないですが、この家で暮らしたいのです。ならばどうすればよいか?自分が嫌がらせをスルー出来るメンタルになればいい。そう考え、そのノウハウをブログとして残しています。
ストレス解消のために日記を書くという事、wordpressの使い方を学びたいなど複数の理由で始めたブログです。
ハッキリ言って私は今でも人間が嫌いです。こんな目に現在進行形で今も被害に遭っていて、他人など好きになれるわけがありません。
しかし、人生の中で人に助けられたこともあるからこそ、全否定や全肯定といった、1か0かでは無く、どこで境界線を引くか、付き合い方を模索しながら生きています。
ただ、近所の人々との人間関係の復縁は無いでしょう。無理に嫌いな人間と付き合う必要はないです。
自分自身の人生への向き合い方、少しでも生きやすくなる方法、理不尽ないじめに対する相手への怒りや恨みで、人生を台無しにしないための心のあり方などを提案、実践した結果などを書いています。
自分が何も悪い事をしていないのに、誰にも理解してもらえない、誰にも認めてもらえない。そういう方達が少しでも心をラクにできる記事が見つかる事を願います。
※一部修正、追記しました。
ブログ当初と現在の記事の内容など、心境の変化
私のブログの記事は、ブログ開始から1年ほどは、一方的にやられた恨みや怒りを抑えきれなくて、かなり攻撃的な文章が多いです。
現在の記事の内容などと比べて、心境の変化など、私が彼らへの怨みや怒りをどうやって小さくしていったのか、当時のリアルタイムでの起きた出来事、怨みを自分の中から消すために試行錯誤していろいろ試した事などを書き続けたブログです。
一時期は私は近所の家へ木刀を持って殴り込みに行こうかというくらい限界がきて相手の家の前でやめたこともあります。
相手の死を心の底から願う、もしくは自分のこの手でやろうかと思い詰めたくらい、深い怨みを抱えていました。
あの悔しさ、理不尽な苦しみや絶望。本当に言葉でたとえようがありませんでした。人生で一番苦しかったです。
加害者たちは今も誰一人として反省もしていなければ謝罪もありません。それどころか被害者の私を今も加害者扱いしている連中です。
しかし、それでも私自身に当時のような深い怨みはなく、「しょうもない連中だ」と呆れるくらい相手にしなくなりましたし、イライラしなくなりました。
現在も近所とは仲良くする気はありませんが、バッタリと会ってしまった際は、いじめの主犯以外の連中にはたまに挨拶をします。(村八分状態だし、私も相手達もなるべく避けているので滅多にありませんが。)
突然一方的に攻撃された怒りや怨み、悲しみ、悔しさ。ありとあらゆる負の感情をどうやって乗り越えたのか。「私」というご近所いじめの被害者の実体験の過程が、皆様の参考になれば幸いです。
私の人生。かなり情けないのですが、多くの人に支えられてこうして生きているのだと実感しています。
- 1984/4/4 帝王切開で生まれた。(骨盤位で前置胎盤、さらにへその緒が首に2重にまとわりついて結ばれていて、仮死状態)
- 幼稚園の頃、幼稚園に行きたくないとバスを拒否して泣いていた。
- ピアノを習っていたが、出来なさすぎて途中で抜け出したりした。
- 小学生の頃、学芸会の指揮者に選ばれたけど、嫌で泣いていた。
- 小学校から高校までどこへ行ってもいじめられ、高校三年生の時に不登校。
- 大学3年の頃に母が亡くなり、母の実家から大学に通いながら祖父母の介護。(後に祖父母も亡くなる)
- 3年煩ったヘルニア悪化により腰の手術。
- 就職するも、始発から終電まで働く環境を経験し、さらに新入社員ながら運悪く社員旅行幹事に。実力不足もあって1年半で辞める。
- バイトを転々としながら自衛隊の試験を受け、合格。横須賀基地へ到着するものの、メンタル面の完治は定義がないという事で、軍医の許可が下りず、その場で落とされる。
- 父の家に戻るものの、義母とウマが合わず、ストレス。派遣会社に登録し、働き始めるものの、メンタル不安定により何もかも放り捨てて山へ自殺しに行くも、勇気が出せず、結局帰る。
- 何とか一人暮らしに戻り、派遣やバイトで食い繋ぐものの、どこも長続きせず。
- 母の実家の叔父が末期癌により、相続のため、引っ越して看取る。(叔父は独身のため、母の息子である私が相続人だった。私は一人っ子。)
- 母の実家で暮らし始める。生まれた頃からの知り合いや、子供の頃からの知り合いが多いため安心するも、妬みからか、その人達を中心に私への陰口や難癖付けなどの誹謗中傷が始まる。
- 自殺未遂と人間不信。1~2年目は地元へ帰れるくらいの気力があった。(実家は義母と不仲なので帰らず。電話でたまに父と会話。)その後ほとんどスーパーと家を往復するだけの毎日になる。その間もずっと誹謗中傷は続いている。
- 4~5年目で筋トレと読書でようやく立ち直り、社会復帰に意欲が湧いて、短期バイトをする。
- 5年目に、近所の誹謗中傷を続ける主犯に苦情を直接言う。嫌がらせが陰湿になる。自治会長に相談。自治会を脱会することにした。
- 6年目の現在、短期バイトは1ヶ月以上出来る様になる。近所とはほぼ縁切り。
- 7年目。相続後実家へ初めて帰る(1~2年目の頃は地元には帰って友人と会ったりしたけど、実家には寄らないし知らせなかった。当時安宿や自分の車で寝泊まりした)。バイトしながらITパスポート試験に合格。近所からの村八分は続いているが、気にしなくなった。克服したとも言える。
- 初めはストレス解消とwordpressの使い方を覚えるのが理由だったが、書いているうちに自分自身のストレス対策の見直しや読まれる記事から、「自分と同じような苦しみを抱える人の参考になればいい」という理由もあり、続けている。
※書いているうちに思い出しては追記しているので、読みづらい記事になりました。時系列として矛盾点や疑問等もありますがご了承ください。
相続の経緯
相続したものと関係性 |
母の実家(元は祖父母、叔父、母の4人家族だった)と叔父の遺産。 生まれてから母の実家の隣町で暮らし、5歳の頃に静岡県浜松市へ引っ越し。以後、長期の休みごとに毎回遊びに帰ってくる。高校卒業後から社会人2年目まで母の実家にて祖父母、叔父と共に生活、祖父母の介護をしながら大学に通っていた。 その後再び浜松へ帰り、一人暮らし。叔父から末期がんになったと連絡を受け、一度帰郷。その後、バイトを辞め、荷物と車を持って母の実家へ戻り暮らし始める。2週間後に叔父が亡くなり相続。 |
なぜ相続できたのか | 叔父が独身で、祖父母、母は既に亡くなっている。私が叔父にとって唯一の家族であり、相続人。叔父の生命保険も私が相続人になっていた。 |
近所の方との関係 | 生まれた頃や子供の頃からの知り合い。血縁関係のある人はいない。 |
ありがとうございます!ただ、意識が戻っただけで会話できるほどではなく、まだ深刻な…
お父様の意識が戻られたようで良かったです! やりたいことは、どんどんやった方が良…
こんにちは。ありがとうございます。
こんにちは。自分の健康と安全を第一に、ゆっくり休んでくださいね!
コメントありがとうございます。 「悟空ならこういう時どういう考え方をす…
私もドラゴンボールが好きでしたが、 こういう良い作品のおかげで真っ直ぐな自分でい…