前回の続きです。

 

私は引き継いだ遺産は投資信託と生命保険(相続人は私だった)であり、投資信託は銀行に行って全て署名して手続き。一部は解約し、父にあげました。

 

とりあえず、相続した家は半世紀経ち、ものすごい量のモノで溢れかえっていました。葬儀の時に父が来ていたので1階の掃除をやってもらいました。面倒だったので(おい)。

 

当然ほとんどはまだ残っています。生活には当分困らないので、相続関係の手続きをしつつ、平日にゴミを分別しては、車にたくさん詰め込んで、市のゴミ処理施設を往復する毎日でした。

 

「一人になった家って、広いなぁ。」ちょっと寂しく感じましたが、まぁ周りの人は幼い頃から知っている人達だし、やっていけるだろうと、楽観的でした。

 

少し複雑ですが、私は元々は、この町の病院で生まれ、5歳の頃に両親の転勤で静岡に行ったのです。毎年母の実家であるこの家に帰っていましたし、高校卒業後は8年暮らしていました。その間に母が亡くなり、祖父母も亡くなり、叔父と私だけになり、私は静岡へ戻って来ました。フリーター生活を続け、叔父が末期癌の知らせを受けて、引継ぎに戻りました。

 

そんな毎日を数ヶ月続けていた頃、近所の方々が道路で世間話をしていたのですが、ウチの事を言っているようでした。「あの子ってなんか私たちを避けていない?」と。(ウチは古い家だからか窓が大きく、そして近所の方々は老人も多いからか、声が大きいのです。)

 

 

私は別に近所の方々を嫌っているわけではありません。元々自分から人に話しかけるタイプではないので、あまり人にプライベートでは話しかけないだけです。それにやる事があるので、特に話題がないのに不毛な話を延々とするのもされるのも嫌なだけです。うっすらとですが、この近所間は同調圧力が強いのでは?と感じました。

 

自分達が朝や昼、外で話し出した時に家から出て会話に加わりに来なかった事が気に食わなかったのでしょうね。(以前大学に通うために住んでいた時期は、そんな事を全く言われなかったのですが・・・)その会話をしている人達の一人が、「みんなであの子を無視しよう。」と提案しました。

 

そしてこの人は、私が小学生くらいの頃に近所にそろばん教室を開いたおばぁちゃんでした。私はすごく優しいおばぁちゃんだなと好感を持っていました。叔父が危篤になった時も、真っ先に近所の方達の中で一番最初に連絡して相談した方です。

 

非常にショックを受けたのを覚えています。声が大きく高く、特徴があり、すぐに誰か分かる人だったので、本当に衝撃でした。しかし、私は聞かなかったことにして、日々を過ごすことにしました。

 

その会話を聞いてから数日後、道で近所の方の一人とすれ違いました。挨拶をしたのですが、なぜか露骨に顔を逸らし、軽く頷くだけ。他の方ともすれ違った際に挨拶しても無視をされました。

 

そして、私を無視しようと提案した方とも別の日にすれ違い、とりあえず挨拶をしたのですが・・・この一件が私にはものすごくトラウマになり、「人間」という生き物を心底恐ろしいと実感しました。

 

私が挨拶した時、ニッコリ笑って近づいてきて、軽い世間話をしたのですが、「何かあったらいつでも言ってね。私はあなたの事を、孫みたいに思っているから。」そう言ったのです。今でもハッキリ覚えています。

 

一人で引き継いで数ヶ月、子供の頃から信用していた近所の方々からのこのような事を受け、とどめになったのがこの方の一言だと今も感じています。今考えれば、私に人を見る目がなかったのでしょうね。

 

ここまで酷くなる前、静岡のかつての派遣先の先輩方と交流があった頃、とりあえずその頃はまだ出かけられたのですが、近所の方々が私の行動のたびに陰で難癖をつけ続けました。しかも聞こえるように。

 

夜に明かりがつけば、「また家にいる」だの、「何やってるんだろうね」だの、髭剃りの音や風呂の明かり、音、台所で明かりがつくなど、本当に何をやっても近所の方々が見かければ、私の陰口へ移行します。私の家から物音、水道を使う音などがすれば。一人二人ではなく、その場にいた周りの主婦全員です。半数は私が生まれた頃からこの地域に住んでいる方々でした。毎回私の家から人の気配がするたびにこの5~6人の周り近所の同じ一軒家の方々からの難癖は続きました。これは頻度こそ減ったものの、今でも続いています。

 

そうして私は徐々に、外に出なくなりました。「長い付き合いの人達でもこんな風になるのか・・・醜いなぁ・・・これが人間か・・・・」と、絶望しました。家の雨戸を全て閉め、全てを遮断し、用事のない日は夜遅くにスーパーへ食料を買いに行くだけの毎日。完全な引きこもりにならなかったのは、一人だったから仕方なく外に出なければならないからです。幸い、遺産はあったのでいろいろな支払いなどには困りませんでした。

 

 

毎日パソコンでゲームや動画を見ていました。それでも空っぽのような感覚で虚しい思いが付き纏い、やがて何もしなくなりました。天井を見たり、体育座りでボーっとしていたり、包丁で自分の頚動脈を切ろうとしたり、そんな毎日が何年も続きました。なぜ包丁で頚動脈を切ろうとしていたのか、中途半端に生き残るのは後遺症が残る可能性があり、それは周囲に迷惑をかけるからです。しかし、どうしても出来なかった。首に食い込んでも、横に引く勇気はなかったのです。

自分が憎み、醜いと感じる人間達、同時に自分も人間であるという自己矛盾。毎日グチャグチャになった心をまとめられず、何も動けず、方向も定まらず、「このまま死ねたらいいのに・・・」「人間なんて滅んでしまえばいい・・・」ずっとそんな事を考えていました。元々自己犠牲と破滅願望の強い人間だったので、本当に自殺しなかった事にヘタレっぷりが出てますが。

 

私は子供の頃、この母の実家を大きくなったら引き継いで、のんびり暮らして老後を迎えたいと考えていましたし、両親、祖父母、叔父も将来的にはそうなるだろうと考えていたのです。(だからこそ相続人が私になっていた。)

 

結局その夢は、子供の頃から信用していた近所のおばぁさん達に潰されてしまいましたが。一人で泣いたのを覚えています。

 

はい、以上の一連の流れが私の自殺未遂に至った経緯です。結局首を包丁で何度も引っ掻こうとしただけ。全く持ってしょぼいです。構ってちゃんです。

 

人より心の弱い人間なので、「この程度でへこたれるな!」とお叱りを受けそうですが、まぁ起こってしまったことは仕方ないという事で(笑)

 

すみません、思い出して体調が悪くなったので今日はここまでにします。