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人間なら誰しも他人と比較してしまいます。どうしても相手への劣等感や「なんであいつだけ!」という嫉妬の感情を持ってしまうこともあります。

私自身も嫉妬の塊だった。

 

私もそうです。私も遺産相続前の、手取り11万円フリーターで家賃2万8千円暮らしの頃、勤め先の社長の方や、高校の同級生で社長の息子に羨ましい感情を持っていましたし、遺産相続後のご近所いじめを受け続けているとき、彼らは私をいじめて楽しんでいるとき以外は、自分の家族や孫に囲まれて幸せそうでしたし、主犯も近所の子供たちに慕われて人生が充実しているように見えて悔しかったです。

 

どうやって相手への嫉妬を乗り越えたのか。

 

私はこれらの嫉妬をどうやって乗り越えていたのか、というと、まずは自分の内面に目を向け、なんで相手を見ていてイライラするのか、考えました。

 

その結果、「これは妬みだな」と、まず自分の感情の醜さを認めたのです。

 

その上で、相手の事を考えました。

 

勤め先の社長は私が帰る時もずっと仕事に追われ、朝から晩まで毎日忙しそうでした。

 

高校の同級生で社長の息子も、社長として引き継いで、古株の社員達と関わるのは嫌がっていました。(古株の社員達もまた、彼を妬んでいたのでしょう。)

 

このように、一見して「社長」や「社長の息子」といった、社会的には勝ち組と呼ばれる方々も、悩みを抱えていたり、忙しかったりと、私たちと何も変わらない人間なのです。

 

ただ社会での役割が異なるだけで、同じ人間という事実に変わりはありません。だから私は「ただの同じ人間」として彼らと接していました。必要以上に彼らに価値を勝手につけているのは自分の方だったのです。誰も見下してもいないし、見下されてもいませんでした。自分がそう思っていただけです。

 

嫉妬される側になった私の視点。

 

遺産相続によって、私は数千万のお金と、一軒家を手に入れました。

 

その結果、社長の友人からは、「お前がそんなにクズとは思わなかったわ」と言われましたし、相続した一軒家の、周り近所の幼い頃から知っている近所の方々から妬まれ、陰口や難癖を一方的に付けられました。

 

それだけのお金を手にして、まず考えたことは、「生活にしばらく困らなくて済む」という事と、「他にもやりたいことができるし、買えるものも増える」という喜びでした。他人からどう見られるのかなど、全く考えていません。自分のやりたいことができるという事しか考えませんでしたし、自分が相続したものを見せつける気もありませんでした。

 

結局妬みとは、「自分の中にある感情」なのです。人にはどうにもできないものであり、人を恨むのはお門違いです。私は人から妬まれ、人間どころかそれ以下のような扱いを近所の方々からされているも同然でした。

 

人は自分が「絶対に正義(正論)である。」と強く思うと、やがて相手を人間として見なくなります。

私の近所の方々は、私を「○○さんの孫」という目線がなくなり、「金持ち」という目線に変わったので、どこまでも際限なく私をこき下ろし、自殺未遂と人間不信に追い込まれた私に対して誰一人自分たちのしたことを謝罪すらしないどころか、「私が悪い。私たちは悪くない。」という態度をとり続けているのです。

 

だから私は何度も叫びました。「俺は人間だ!!「金持ち」なんて記号じゃない!!人間だ!!」と。その声はだれにも届きませんでした。

 

この世に味方はいなくても、あの世に味方はいる。

 

私はこの世にいる味方は周囲にいなくなり、荒みました。

 

私をいじめている近所の方々は、毎週のように孫に囲まれ、幸せそうです。主犯の塾の教師も近所の子供たちに親しまれ、塾の子供たちに親しまれ、幸せそうです。

 

私は孤独でした。嫉妬は孤独、疎外感からも発生します。県外の父以外の信頼できる身内は皆亡くなり、周囲の幼い頃から知っている人々から人間扱いされない毎日。

 

私が唯一心を癒すことができたのは、墓参りに行った時や神社に行った時でした。

 

この世に味方は少なくとも、天に味方はいるのです。自分がそれを実感できないだけです。

 

亡くなった母や、祖父母、叔父との思い出があります。そして、現在の私があるのは叔父が私を相続人に決めており、引き継いだからお金の心配はなく、暮らせています。

 

今はこの世にいない人々のおかげで私は生活に困らず生きている。これ以上の味方はいません。

 

だから私は考えました。今生きている周囲の、自分を傷つける人々に、どうして自分を認めさせる必要があるのだろう?

 

「自分があの世へ行った時、みんなに面白いみやげ話を持っていこう!」と思います。そう考え、他人への妬みより、自分の人生を充実させることに集中し始めました。

 

この時、「私」を「私」として、みてくれない人々と縁を切ると決めたのです。

 

孤独を紛らわせる方法は、考え方を変える事。

 

私はあの世に家族たちがいる、その家族にみやげ話を持っていける楽しい人生を送りたいと考えましたが、この世で生きているときに、不意に「寂しさ」に襲われることは何度もあります。私をいじめる近所の方々の楽しそうな笑い声は、私には不愉快でした。

 

このままでは、いつまでも嫉妬の繰り返しで、何も前へ進めない。そう感じた私は、読書による知見をさらに増やし、歴史や宇宙に目を向けました。

 

そして、私は「自分」と「周りの人」ではなく、「地球に生きる一つの命」というように、考え方を変えたのです。「人間」という一つの種族の視野から、地球に生きる「一つの命」だという視野に替えたのです。

 

「友人もいない、けれど、人類という同じ種族は77億人もいるのだ。さらにこの地球という惑星でありとあらゆる生き物が生きている。私は一人じゃない。同じ星にたくさんの

同属がいるのだ。」と。

 

それでも、不意に寂しさに襲われた時は、コンビニなどに行きます。

 

「コンビニに人がいる。彼らも買い物か。業者の人も来た。みんな私と同じように、この星空の下で、みんな生きているんだな。」と、灯りに人がいることに満足します。

 

「人類みな兄弟」とはよく言ったものです。私はこの星で生きる運命共同体として、人間だけでなく、動物、植物など、ありとあらゆる生命を自分と同じ「ただの命」として見ることで、孤独感から解放されるようになりました。

 

最初は抵抗がある方もいるかもしれませんし、頭でそう考えても、実際に命の選択では私はおそらく人間を優先するでしょう。それでも、この空で、世界の全ての命が見る景色は同じであるという事実は変わらないのです。星はずっと空にあるのです。

 

そして、自分が一人であることに、他人を妬むことは無くなりました。

 

では、最後にもう一つ。人間社会での妬みに対する私の考え方を紹介します。

嫉妬は生きている限り湧くのが普通。

 

私の社会での妬みの克服方法ですが、基本は「妬みを感じたら対処する」といった感じです。

 

現在の私は無職です。妬む対象なんて色々あります。正社員は羨ましいし、若い人たちが羨ましい。5年以上のブランクがある私を見下す人も多いでしょう。

 

しかし私は、「あの世にいる家族やご先祖様に、面白いみやげ話を持っていく」という目標が出来たので、色々な経験を積みたいと考えています。だから、自分の学歴や職歴をもう気にすることは無くなりました。孤独に生きることを決めたとも言えます。

 

それでも人への妬みは湧きます。なので、私はまず自分の中に沸いた妬みを認めます。

 

次に、「そのうち自分にもいいことあるさ。」と考えます。実際にいい事があるのかは私にもわかりません。

 

いいことがなければ、自分でいい事をしましょう。私は自分の心が社会的な劣等感、妬みが沸いた時は、スーパーなどにある募金箱に10円入れたりしています。

 

自己満足でもその10円は、誰かの役に立つ10円です。偽善でも、お金が人の助けになる上、自分の社会貢献という価値を満たせるので妬みを感じなくなります。

 

「あの人たちは募金してないけど、私は募金したぞ。」と。実際に彼らが募金をしているのかどうか、それは関係ありません。

 

妬みは「自分の中で」起こるものです。他人が起こすものではありません。だから自分を鎮める理由をつけるなら何でもいいのです。

その「自分の妬み」を鎮める方法を知らない、もしくは考えない人たちが、他人を攻撃するのです。

 

私は月や星が空に綺麗に見えるだけでいいことがあったと感じる人間なので、正直よほど心が荒れないかぎり、空を見上げるだけで妬みの感情が消えます。実際短期バイトの頃も、夜に帰る際、澄んだ空に綺麗に星座が浮き出ていただけでご機嫌になったくらいです。

 

社会的な人間としての周りへの劣等感に対する対策が、善良な行動を取ることです。どんなに社会的に地位が高く人生が充実していても、日ごろから他人に陰口や難癖をつける人より、プライベートでスーパーやコンビニの募金箱に1円でも5円でも入れる人の方が遥かに社会に貢献しています。これは変えようのない事実です。

 

自分の人生はこの世での実験。

 

あえて言うなら私は自分の人生を「世界に一つしかない私だけの本」として考えています。

 

おそらく私と全く同じ人生を歩む人はこの世にいませんし、今後も出てこないでしょう。一つの生命としての私の生涯は、私にしか価値が分からないのです。

 

他人が私にキャリアがどうの、仕事がどうのと、世間的にどうのと何と言おうと私にはなれないし、彼らにも私になることはできません。

 

私が将来「失敗した!」「あの時こうすればよかった!!」と人生を後悔したとしても、それは私の人生なのです。それらすべてを含めて、人生の終わりに「私」という本は出来上がるのです。

 

世の中のあるがまま起きたことを受け入れ、人生の成功も失敗も、そもそもそんな概念すらなく、私は日々というものを終わりへ向かって送っている感じです。正直言語で説明するのが難しいのですが、ありのままの自分で生きています。

 

私の生きてきた人生がそのままあの世へのみやげ話になるので、どうせなら楽しく豊かな人生にしたいという欲望があるのも事実ですw無職であることに劣等感があるのも事実なので、バイトや派遣など仕事をしていろいろ稼ぎたいですね。わはは。