これだけ問題視され続けているいじめ問題。

 

なぜ日本から減らないのか、私の実体験を踏まえて考察していきます。

 

いじめ加害者へのペナルティが一切ない

いじめが減らない最大の原因はこれです。日本はいじめの加害者に対するペナルティが一切ありません。いじめとは、脅迫、暴行罪を言い換えた言葉です。犯罪なのです。

 

暴力団は規制されるのに、暴力団まがいの行動をする「いじめという言葉で言い換えられた犯罪」は一切規制されないのです。本当に異常な国です。

 

私のご近所さんの主犯も私に対しての誹謗中傷による名誉棄損にプライバシーの侵害、町を追い出そうという相手が身の危険を感じる脅迫行為などを繰り返しているのに、一切法律で裁かれません。

 

加害者を法律で裁くためには、被害者が一人で証拠を集め、一人で警察や弁護士を頼る必要があります。その費用は誰も保証してくれません。被害者のケアも誰もしません。それどころか自分にターゲットにされるのを恐れて加害者に回ります。この加担した加害者達ですら一切の罰を受けません。

 

では、いじめ加害者達が罰を受けないとどうなるか。

 

簡単です。反省しません。

 

反省しないからいじめに加担しても罪悪感はなく、陰からリスクもなく人を攻撃する快感に酔いしれ、今後も積極的に加担します。何かあればいじめの主犯のせいにするか、被害者のせいにして逃げます。

 

結果どうなるか、そんな彼らの中から主犯の行動から学んだいじめのノウハウを駆使した、新たないじめの主犯が生まれます。そしてまた誰かをターゲットにいじめを始めるでしょう。

 

当たり前の話なんですよ。いじめに加担したのに、何のペナルティも受けなかった。

 

つまり安全な場所から一方的に攻撃する楽しさだけが残り、責任はいじめの主犯達に負わせることができる。そんな事をすれば罪悪感なんて一切残りません。

 

これが現在問題になっているのが、SNSの誹謗中傷問題です。

 

いじめ問題は学生よりも、「抑え」のいない大人たちがいじめを生み出す原因

学生はまだ考え方も柔軟で、教師や周りの大人が常識的な感覚を持った人なら改善の余地がありますが、もしもこれが成人し、年齢を重ねた大人だったらどうなると思いますか?

 

  1. 上から抑えつける大人がいません。
  2. 年齢を重ねて自己が肥大しています。
  3. 年を取るほど年下の意見は聞きません。

 

結果、私のご近所さん達のような陰口や悪口ばかりで共通の敵を作って団結し、自身の非を認めず、人のせいにし、自分の言葉や行動に一切の責任を持たず反省をしないどころか、被害者のせいにした挙げ句、被害者を町から追い出すことで自分達のいじめを「なかったこと」にしようとするモンスターが生まれます。

 

子供たちの手本となるべき大人たちが積極的にいじめをし、反省をしないのです。こんな大人たちから子供は「いじめのメリット」だけを学ぶのです。学んでしまうのです。

 

まだ自我の未成熟な子供達はより本能的な感覚で学んでしまうのです。子供は大人が思っているよりも遥かに原始的な学習能力が高いのです。柔軟に貪欲に新しい事に興味を覚えるのは、子供を持つ方や、「幼い頃の自分の周りの大人をどう思ったのか」などを思い出してみれば実感するのではないでしょうか?

 

大人たちが、自分自身が本当の意味で大人にならなければ、いじめなど減るはずがありません。

 

「本当に大人になる」にはどうすればよいか

ここでは、大人が本当の意味で大人になるにはどうすればよいのか紹介します。

 

  • 自分が子供の頃に見た大人たちの姿を思い出し、「これは道徳的に悪い事だ」と判断したら、改善する。
  • 昔あなたをいじめた人たちと、今あなたの周りにいる人たちとは「違う環境や時代の人間だ」と理解する。
  • 一般的な倫理や道徳を箇条書きして、定期的に見直す。
  • 非を認めたからと言って、自分のすべてを否定されたわけではないと理解する事。(ものごとは0か100の極端な二択ではないと理解する事。)
  • 心理学や脳科学などの書籍を読み、「人間そのもの」への理解を深める事。
  • 視野を狭めない、固定観念に囚われないこと。
  • 思考を停止しない。同調圧力を疑う事。
  • 常に客観的に自分を見つめ直す機会を作る事。
  • 良くない事をしたと思うなら、反省し少しずつでも改善するように努める事。
  • 自分の発言と行動に責任を持つと意識する事。
  • 人との対立を恐れず、自分の意見があるなら言う。
  • 勇気と希望を捨てない事。

 

 

以上です。特に勇気と希望を捨てない事。

 

実例:私が勇気を出したことで私自身が変わった話

私の実体験ですが、私がご近所さんのいじめ加害者宅へ苦情を初めて言いに行った際、足が震えて声も弱弱しかったです。今考えると主観的にも客観的に見てもすごく情けないです。

 

しかし、私は反抗したのです。客観的に見れば本当に情けないし、いじめ加害者のご近所さん達は嘲笑していました。

 

お酒をたくさん飲む日々が続きましたが、冷静に事実を思い返しました。そして気づいたのです。

 

情けない姿を見せたのは事実ですが、自分の意志で相手に立ち向かったというのもまた事実なのです。この1件を境に私自身の精神が大きく変わりました。

 

私は男であるため、「情けない姿は人には見せたくない。」と思っていました。

 

しかし、情けなくも自分の言いたいことを言いに行った結果、

 

  • 固定観念の脱却(自分の意見を言ってもすべてが崩壊するほどの大ごとにはならない。)
  • 怖いもしくは苦手な相手に反抗したという精神的自信。
  • 世間体を気にした人生観の脱却(「周りのため」「今後のご近所付き合いのために我慢。」という私自身への"言い訳"をやめた。私もまた「人のせいにして逃げていただけ」だと気づいた。)
  • 「自分の人生は、自分のものだ」と気づいた。つまり「本当の人生の価値」に気づいた。(これは実感しないと分からないと思います。「こんなすぐ近くにずっと宝物はあったんだ。」という「気づき」の感動でした。わけもわからず溢れる涙が止まらなかったです。)
  • 人生とは、この世に肉体を持って存在する事自体が貴重なことであり、ありのまま全てが祝福なのだと気づいた。(もちろんお金が無くて破産したりすると不幸だしワンルームのアパート暮らしに戻りたくない、ご近所いじめや村八分を受けている苦しみや恨みも残っていますし、嫌です。その感情すらも「私」という存在への学びやギフトなのだと感じる自分もまたいるのです。自分で自分の命を絶っても私は「学び」と捉えるでしょう。現在の感覚を言葉にするとこんな感じです。あるがまま、森や川といった自然ではなく、人間としての「自然」みたいなものです。)

 

結果、どうなったかというと、2回目の苦情を言いに行ったときは、初めて苦情を言いに行った時より足が震えていません。

 

そして2回目は主犯は出てきません。息子が代わりに出てきました。息子に苦情を言いました。

 

3回目は相も変わらず陰口を続けていた挙げ句、一家揃って居留守を使って逃げたので、我慢の限界がきて相手の家のチャイムを何回も鳴らし、出なかったのでついに怒鳴りました。

 

いじめ主犯が私を町から追い出そうと自治会組長に相談に行きました。ご近所さん達全員が私への村八分を始めました。誰も加担して行った自分達の行為の反省すらしていません。全て被害者の私のせいにして自分自身の行動や言葉に対する反省の一つすらしていません。

 

私も相手達の顔を見ると腸が煮え返る思いがするし、怒鳴りつけたくなるので彼らの存在の一切を無視しています。大人なので学校などと違い、明確に上の立場がいないので年齢もあり、プライドだけは高くなって人の意見は聞かないので、自分で自覚しないかぎり、何を言っても無駄なのです。

 

大人として「怒鳴る」という行為は良くないのですが(反省はしています)、私はここで、他人に対抗できる声の出し方と心の強さを身につけました。この3回目の時は足が全く震えていませんでした。

 

人との意見の相違や対立を恐れない自信とノウハウを身につけたのです。最初に震えてスタートした私は、今後もありとあらゆる学びを身につける自信を手に入れました。

 

お金や地位では決して買えないし手に入らない、誰にも手にすることのできない「私」という存在を手に入れた(気づいた)のです。

 

今後の人生の見方が変わりました。この感覚は誰かに理解しろと言って理解できるものではないと思います。

 

本当の意味で「自分探し」を始めよう

私は相続後に幼い頃から信用していたご近所さん達からのいじめが始まり、随分苦しみました。回り道をしました。

 

だからこそ言えるのですが、本当の意味での「自分」は、既に自分の中にあるのです。

 

いじめが起こり、同調圧力やその連鎖が続くのは、誰もが「自分」を見失っているからではないか。私にはそう感じるのです。

 

私たち一人一人の大人が「自分」を取り戻すことで、少しでもいじめが減る世の中になるように、世の中を変えていきたいですね。

 

 

おすすめの記事