私は相続後にいじめを始めた幼い頃からずっと信用していたご近所さん達が許せないです。

 

被害者が苦情を言っても誰も非を認めず、人のせいにして逃げた挙げ句、町から被害者の私を追い出そうとした連中。

 

6年苦しみ、自力でようやく今の状況まで持ち直しました。

 

心の底から憎んでいますし、本気でいじめ主犯とその取り巻き、さらに加担した住民を憎み続けています。特にいじめ主犯に対しては「この手でころしてやる!」と心の底から憎んでいます。本気で実行に移そうと武装して訪ねようとしたこともあります。それほどの恨みです。今も怒りと恨みで殴りかかりかねないくらいの激情が湧き上がる時があるくらいです。

 

何年経とうと許せそうにありません。

 

どうやってこの今にも破裂しそうな憎しみを抱えたまま自分の生活をできるのか。その説明をします。

 

相手を許さなくていい

相手を許さなくていいです。むしろ許してはいけません。

 

相手が何も反省していないのに謝りもせず、何もなかったかのように話しかけてくるのを許したら、新たな被害者を生み出します。加害者に相手を傷つけた自覚がないからです。「めんどくさい事が終わった」くらいの認識でしょう。時間が経てばまた同じことを繰り返します。

 

どうしようもない相手からは距離を置きましょう。許せないからとずっと執着していても、自分の人生の時間を無駄にするだけです。

 

許すべきは憎しみに染まった自分自身

相手達を許す必要はありません。それだけの非道な行いをされて怒るのは当然なのです。

 

ただし、相手達を憎み続ける自分を許してください。許すというより、許容するのです。

 

私自身の経験なので、皆さんは違うかもしれませんが、私の中には絶対に許せない憎悪に染まった自分の心と、憎悪に染まった自分に嫌な気持ちになる心があります。

 

それが葛藤して躁鬱を繰り返すような情緒不安定な数年を繰り返していました。

 

そしてようやく、現在は安定しています。それは、ご近所さん達を憎む自分を許容したからです。

 

その憎悪と恨みを抱えた自分の心を許すのです。許すというのはちょっと上から目線なので「受け入れる」に近いかもしれません。

 

「恨むのは当たり前だよな。あんな事をされたんだから。だからお前はこの先我慢してあいつらを許さなくていいんだよ。」と、憎しみに染まる自分の心を許容するのです。

 

※「許さなくていい。」は「実行していい。」とは別です。許さないという怒りや恨みを持ち続ける自分を肯定するのです。「怒りや恨みを抱えたまま生きていい」ということです。 

 

自分の心なのだからそこには優先順位はあっても上下関係はありません。全て対等なのです。

 

怒り狂う自分の心に語りかけるのです。「怒って憎んでいいんだ。その感情は当たり前の事だ。」と肯定するのです。そうするとどうなるか。不思議な事に、膨らみ続ける怒りや恨みがそこで止まります。あとは心ではなく、筋トレや読書など自分の心の中ではなく別の事に集中して薄めていけばいい。

 

これを続けていくとだんだん怒りや憎しみが薄くなっていき、嫌な相手が頭から離れる事はないかもしれませんが、その相手に割く思考が薄れていきます。時が経つほど効果が顕著になります。

 

善と悪を同時に宿せるのは人間の長所と言えます。善しか知らなければ悪を潔癖なまでに排除し、悪しか知らなければよりどす黒い悪に流れていく。知っているからこそ、振り子のようにフラフラ戻ったりできます。だから共存が可能です。

 

「自分自身」という最大の理解者を味方につける。これほど頼もしい事はありません。本当に人生観が変わります。実際に自分で体験しないと実感しないと思います。

 

自分自身に語りかけるのはおかしなことではありません。発表会や大会、試合などが始まる当日や直前などで自分自身の心に活を入れた経験はないですか?

 

状況は違えど、やる事は同じです。それが憎しみや恨みといった負の感情だと私たちは目をそらしてしまうのです。

 

既に自分の心を認識しているのに、認められないのです。認められないから余計に相手への憎悪だけが膨らみ続け、同時に良心が働いて結果、自分自身を傷つけようとするのです。それが自殺という結果になったりするのです。私もご近所さん達のいじめが始まった当初に自殺しようとしていたからよく分かります。

 

私が包丁で自分の頸動脈を刈り取るために力を入れた寸前、「どうして何も悪い事をしていないのに、こんなに自分だけが辛い目に遭わないといけないんだ」という一人で命を絶とうとしている悲しさ、誰にも自分の苦しみが理解されないという悔しさ、誰も助けてはくれない現実と、現状への怒りと憎しみが生きる力を生んで、筋トレと読書によって立ち直り始めたのです。あのまま包丁を横に引いていたら、今このブログは存在しなかったでしょう。

 

自分を受け入れたからこそ、私は「私」を取り戻すために、いじめ主犯やご近所さん達と対立しても構わないという勇気と覚悟が湧いたのですから。確かに1回目の苦情は情けなかったかもしれない。しかし、3回目は主犯が私から逃げ出したのは事実です。(連中はその後も卑怯な手を使い続けていますがね)

 

人は色々な事を考えます。例えば信号が途中で赤になってしまった場合、「早く渡らなきゃ!」という気持ちと「どうしよう走れば赤になる前に渡りきれる。でも走ると目立って恥ずかしいかも」こんな気持ちになったことはありませんか?

 

人間の心とは一つではありません。一つではないから葛藤が生まれるのです。

 

以前書いた記事でも同じように書いています。自己受容は自己肯定における重要な要素です。

なぜ怒りや憎しみが収まらないのか

それは自分の心を誰にも受け止めてもらえないからです。

 

この理不尽な目に遭った苦しみを、辛さを加害者達に味わってほしい、自分がどれだけ苦しんだか、人生の時間をどれだけ無駄にしたのか。一方的に加害したくせに、逃げて人のせいにするなんて卑怯で最低じゃないか。許せない。

 

憎むべき相手が、対象が逃げてはこの憎悪の炎は止まりません。燃え上がり続けるだけです。

 

かといって加害者達はまず受け入れないでしょう。受け入れる場所がないからこの怒りはどこにも着地できない。収まらない。

 

ならば収まる場所を作ってしまえばいい。その怒りを、憎悪をありのまま受け入れてくれる存在。それは自分自身に他なりません。なぜならこの怒りと恨みは外部から受けた攻撃によって、自分の中で膨らみ続けたものですから。ならばその膨らみ続ける自分の憎悪を自分が理解してやればいい。

 

子供がよく、駄々をこねてその場で転び、一歩も動こうとしない事があります。それは、欲しいものが手に入らない「自分の心」を親に分かってほしいからです。ものごころがまだつかない子供は、自分がものを欲しがっている事は分かりますが、どうしてそれが欲しいのかは自分では分かっていません。そこまで考えられるほど思考できないからです。

 

子供は大人よりずっと知識がない分、直情的です。大人より遥かに真理に近いと感じています。

 

自分を受け入れよう

恨んだり憎んだりする心を持つ自分を受け入れましょう。

 

人間は元来、綺麗な生き物ではありません。それは私自身も同様です。私はさんざん自分のブログで心の汚い部分を見せています。それでもまだ一部と言っても過言ではないでしょう。

 

人の心はどす黒い、汚く醜い部分がある。それを表面に出さないだけで、多かれ少なかれ人間は皆そうです。それが干渉した結果、対立や争いになります。

 

他人を許せないのは当たり前です。自分自身すら受け入れていないのだから。まずは自分自身を許容する事から始めましょう。

 

どうしようもない他人なんて放っておけばいいのです。他人の問題まで自分が抱える必要はありません。

 

最初は難しいと思います。私自身もそんな感じです。だから思う存分怒り憎み、膨らんだら許す。これをずっと繰り返しています。

 

そうするとだんだんと相手の事を考える時間が少なくなっていき、頭の中を許せない相手が占有している時間が減っていきます。気分転換も上手くなります。

 

自分自身からは絶対に離れられないし、避けられません。だからこそ、自分を受け入れて生きましょう。

 

そうすれば他人に受け入れてもらう必要もなくなります。「自分の存在がどれだけ大切なのか、今までどれだけ自分自身を蔑ろにしてきたのか」に気づくはずです。気づいたならこれからたくさん自分の経験を詰めこんでいけばいいのです。

おすすめの記事