私が受けているご近所いじめから学んだことをまとめました。参考になれば幸いです。

 

世の中には常識の通じない人間がいる

私へのご近所いじめが始まった原因が、相続した事です。私は生まれは現在暮らす母の実家のある街なのですが、5歳の頃に浜松に引っ越しましたあ。その後、夏休みなどの長期休みの度に母の実家(相続した家)に帰ってきていました。高校卒業後は大学も母の実家の一室を自分の部屋としてもらい(元は母の部屋だった場所)、大学卒業と社会人の2年間くらいまでは暮らしていました。その間も陰口や難癖などは一切起きていませんでした。

 

ところが私が一人になって相続してからは、周りの幼い頃から知っていた方達を含め、陰口や難癖、挨拶無視などいじめが始まりました。若い私が一軒家と遺産相続をして人生を楽に生きている。それが許せないらしいです(いじめ主犯曰く)。

 

私から見れば、彼女たちのやった事は、私が生きていて相続して暮らしている事へ文句をつけているのと同じであり、それは「あなたが生きているせいで、私たちは不愉快なのよ。」と言われているの同じです。自分達の勝手な嫉妬で、突然一方的に人を攻撃し続けている彼女たちの方が非常識です。

 

しかし私の近所間では私への侮辱を止めるどころか、「被害者の私が町から出ていけばいい」と考える人の方が多いのです(周りに合わせて村八分に加担する人も多い)。今は被害者の私一人が怒っており、私の近所は私を「頭がおかしい人」「迷惑な人」という名誉棄損とも言える扱いをしているのです。自分達が攻撃したことがその原因を作ったと一切考える事すらしません。

 

なんとかして私の弱みを見つけ、警察に突き出したり噂を流すことで町にいられなくしてやろうというのがご近所さん達の考えのようで、自分達がしている事を誰も疑問に思わないようです。私から見ればこの近所の人達は人間の心を無くした怪物にしか思えませんが・・・怪物の方が人間より多いから私が異常者扱いなのでしょうね。

 

現在は村八分状態です。快適です(おい)。

 

「自分が悪い」と思っていなくても、心に区切りをつけることが重要

結果的に私は、ご近所さん達の「お前が生まれた事が、今も生きている事が、私たち近所には不愉快だ。」と終わりのない形もない難癖を心の中で受け入れ、「私が生まれた事が悪い。」「自分が生きている事が悪い。」という、今まで生まれて、生きてきた自分の人生を、自分で否定するという形で、このご近所トラブルを心の中で終わらせました。

 

私の住むご近所さん達の間では、「生き残っている相続した子供であるあんた(私の事です)が悪い!あんたのせいで私たちは不快な気分になったし、難癖付けていた事に文句を言ったあんたのせいで私たちは安心して暮らせなくなった!全部あんたのせいだ!」という理屈が、私の生まれ故郷のこの町では正しいという事です。

 

この人達は自分の子供や孫が相続した時はどうするのでしょうか?(おそらく自分達はいいんだと、また滅茶苦茶な理屈で私だけ差別するのでしょうね。私の相続後に今までずっとそういう差別をしてきた人たちですから。)

 

私の心がこれ以上ご近所さん達への怒りや怨み、憎しみで自分の人生を潰してしまう前に、自分で自分の人生を否定することで、私は私自身の心に決着をつけました。

 

人は自分で気づかない限り、誰かの言葉で変わる事はありません。相手は老人でこちらは年下です。もはや考えを変える事はありません。この7年間の自分達のした事を全て私のせいにし続けており、今後も変わる事は無いでしょう。そんな人間と争うだけ時間の無駄です。

 

「私が相続して暮らしているからご近所さん達は不愉快になった。だから私が生まれて、今まで生きてきたことが悪い。この近所ではそれが常識だ。」と、自分の今まで生きてきた人生を自分で否定することで、心の中で無理矢理このご近所トラブルを終わらせました。

 

この近所は誰もおかしいと思っていない、めんどくさい、もしくは加担した後ろめたさのどれかばかりなのですからどうしようもありません。私一人が「いじめられた!」と喚いているだけです。

 

周りが沈黙し続けているならおかしいのは私の方なのでしょう。現に相手達が一切認めない事で恨みが募った苦情の手紙をポストに入れたら、加害者達に「脅迫状が届いた!」と警察に通報されましたからね。

 

おそらく後日、自治会組長の元へ再び行ったいじめ主犯は「あんな人がいたら危なくてみんな安心して暮らせない。町から追い出して!」といつもの「町から追い出した方がいい!」という苦情を出す理由が増えて喜んでいるのでしょう。

 

私の人権を一切無視した滅茶苦茶な多数決の理屈が正論と言わんばかりに通っているのが私の暮らす町です。私の相続後に、私が幼い頃から知っている老婆達が主導で行っているいじめです。

 

一人で抗い続け、何も成果がないどころか、延々と終わらず、それどころか加害者扱いされてウンザリした私は「私が悪いでいいや。」と思いました。誰も自分を肯定してくれない中、自分一人が正しいと思い続ける事に疲れました。この町では母や祖父母、叔父らが残してくれた家と遺産を相続して生きている私が悪いのです。

 

謝罪を求められたとしても「生きていて申し訳ございません。叔父や両親、祖父母に代わり、私が生まれてしまった事で"ご近所様"たちを不快にさせている事をお詫びします。」としか言いようがないです。

 

この近所界隈では私一人が「迷惑者」にされており、他の老人たちはいじめ主犯とともに「迷惑者に対抗する正義の味方」なのだからどうしようもありません。今後ご近所が干渉してくるとしたら、自治会組長から「町から出ていってくれない?」と提案があるのでしょう。(いじめ主犯が何度も定期的に(私を)町から追い出した方がいいと提案している。自治会組長も自分がミスした際に私に引っ越しの選択肢を提案してきた)お断りですが。

 

心の中で無理矢理終わらせたことで、心に区切りがついて新たな目標ができ、自分の人生により集中するようになりました。現在は3月のITパスポート試験に向けて勉強中です。一歩ずつ進んでいる最中です。納得していないしモヤモヤしていますが、老人や主婦の嫌がらせにいつまでも付き合っていられるほど人生は長くありません。

 

「あ~ご近所いじめか。それは俺が生きているのが悪いという事で俺の中では済んだ事柄だ。それよりやらなきゃいけない事がたくさんあるぞ!」という感じで無理矢理立ち直る事にしました。

 

私が本当に亡くなったらご近所さん達が破顔した笑顔で「正義は勝つんだよ。」とか嬉しそうに喜び合いそうなので、嫌がらせとして生きてやろうと思います(笑)

 

当然引っ越しも考えましたが、父の医療費や生活費を遺産を使い果たしてしまった場合の住居として使いたいし、暮らすために遺産を使って直しています。(他は父の生活費や医療費と、投資で増やしている最中です。)何より祖父母含め、母、叔父、そして私たち家族を、55年見守り続けてくれている家を手放したくありません。この町も私の生まれ故郷ですし。

 

"ご近所様"方には付き合いきれません。私は私を「人間」として見てくれる人を大事にして生きていこうと思いました。(少なくともこの町にはそんな人はいませんが)仮に私を「人間」としてみる人がいなくても生きていく予定です。

 

"ご近所様方"は"ご近所様方"で、今まで通り「善良な市民」として町の皆様と仲良く暮らしていけばいいと思います。

 

自分で自分の人生を否定した私の心境

「新しく自分の人生を再び始めよう!」といった感じです。自分で自分の人生を否定したと言っても、それが命を捨てるほどの理由にはならないからです。私は「自分」が好きだからです。自分の心次第で仕切り直せばいい。

 

他にやりたいことがあり、やる気に満ちている状態です。しかし、「人に冷遇されるのが当然の人間だ」という自虐に囚われてしまう事もあります。

 

まぁ生きている限り、笑ったり泣いたり悩んだり悔んだりしていくのが人生です。特に深く考えてはいません。誰も助けてはくれないのだから、自分自身まで自分を責める必要はないと思います。

 

ま、なんとかなるでしょう。いろいろ不思議な加護もあるし(自分はそう思っています)。

 

本人たちに謝るのはNG

加害者達に謝るのはNGです。彼女たちに成功体験を与えてしまうと、自分達の行いが正しいと判断し、次の被害者を生む恐れがあります。自分の心の中で自分にも悪いところがあったのだと思うようにして終わらせるのです。自分の悩みは自分の頭の中にしかないので、自分で終わらせる必要があります。

 

今回のケースでは、加害者達が何一つ反省することはないので、謝ってしまえば自分達が正しいと確信し、さらにつけ上がり、他の人間に同じ事をして、今度こそ相手を自害に追い込みそうな集団なので(実際私は数えきれないほどこの7年、自害を考えていたし、包丁で自分の頸動脈を切る寸前まで何度も苦しみ続けた)本人たちには私は一切謝る気はありません。心の中でそう思う事でご近所トラブルを自分の中で終わらせたのです。私が生きている間は、他の人間の相続があっても彼女たちの寿命の方が先に尽きるでしょう。

 

それでいいと思います。昼も夜も平日も休日も、顔を合わせるたびに他人の詮索や陰口ばかり何十年も行ってきたご近所さん達にはちょうどいい娯楽なのでしょう。私の住む町でご近所さん達が正しいのなら、彼女達の思う"正しい人生"を彼女達だけが送ればいいのです。

 

私のご近所さん達は自分達のグループで私をどう対処するのか全て話し合いますが、そこに当事者の私は含まれません。

 

彼女たちの言う話し合いという言葉は、「自分達の保身と私への攻撃方法を自分達のグループで決めた後」での話し合いでしかないので、「被害者の考える一般的な話し合い」は行われません。全く関係ない第三者を交えない話し合いなど、公平でも何でもない、ただの数の暴力による弾圧です。

 

彼女たちに「被害者の心境になって考える」という事は出来ません。この7年間が証明しています。

 

人への思いやりを持たない人間に情けをかけるのはNGです。彼女たちの中では反省し、謝る事は「負け」を意味するため、自分自身がすでに被害者という意識であり、「異常者に対抗する自分達が正義」のような思考になっており、「自分より上か下か、地位や財産など、数字や世間体だけが人間の全て」だと思っている人達にもはや話し合いなど無駄でしょう。

 

自分を「正義」だと思っている人間ほど残酷な事ができるものです。他人を人間扱いしないご近所さん達はまさに「正義」に酔っぱらった人達なのでしょうね。酔っぱらっているから言葉の刃を平然と振りかざし、人の心を切り裂いて手段を問わず、自分の前から消すことを正しいと思い込む。

 

私には狂っているとしか思えませんが。せめて私は、私の心の中にある正義「の味方」をしたいものです。

 

状況次第で普通の人は悪魔に変わる

今回は私が相続したことで、近所の人達が突然陰口や難癖を始めました。相続が起きなければこんな事にはならなかったでしょう。

 

しかし、人はいつか皆亡くなるのです。そして次の世代へ移っていく。今回の一件は「時間の問題だった」と私は考えています。

 

私以外のほかの家の子供が相続したら、その子供がいじめ主犯やその取り巻きのターゲットにされていたでしょう。運が悪かったとしか言いようがありません。

 

今まで笑顔で優しく接してくれていた人たちが、突然悪魔に変わる。私は人間が豹変するその瞬間に立ち会った。それだけの話です。

 

親になったからと言って、「人間」として成長する人ばかりではない

このご近所いじめで印象的だった事は、いじめ加担者や主犯は全員自分達も人の親であり、自分の子供や孫さえいる人だという事です。そしていじめ加担者の子供や孫世代と言える人間である私を叩いているのです。この人達は自分の死後、子供や孫の相続が起きた時、自分の子供や孫が同じ目に遭ったらどんな気持ちになるのか、私へのいじめについて一度も考えた事はないのでしょうかね?

 

なんだかんだ理由をつけて私へのいじめは正当化して、今後も私をターゲットにし続けるのでしょうが。彼女たちの子供や孫に罪は今のところありませんが、遺伝的に同類なのでいじめを引き継いで始める可能性もあります。子供世代が私へ干渉してくるならこちらも「敵」に対する措置を取るだけです。

 

「自分がターゲットにされるのが嫌だから」もしくは「何も考えていない」「皆で誰かの悪口を言うのは楽しい!」という人もおそらく多かったのではないかと考えています。

 

自分達のした事が近所間にどのような不和を起こすのか、被害者にどのような苦しみをもたらすのか。

 

そのような、相手の立場に立って考えるという「思いやり」を持てない人ばかりだから、自分のした事に責任が取れず、自分がいじめていた相手のせいにして逃げ、自分は体調が悪くなったと加害者達の多くが被害者かのような態度を取っている現状を見れば、自分で考えて行動し、責任を取ることができない「精神年齢が子供のまま年を取った人達」なのだとよく分かります。

 

結婚して子供を生んで親になったからと言って、みんながみんな、親になっても「その人自身が人間として」成長するわけではないのです。親になっても自分自身の心は成長せず、止まってしまう人たちもいるのだと実感しました。

 

子供を生むのは次の世代を残す事であり、立派な事です。素晴らしいし感謝もされる。褒め称えられていい。しかし、だからといって親となった人達が誰かを見下し、自分の気に入らない人間を踏みにじっていい理由にはなりません。

 

他人の善意は他人の心から生まれるものであり、自分が命令して作るものではありません。だからこそ人間はもらった心が温かく、そして誰かと分かち合いたくなるのに。

 

近所の人達を見ると人の善意や好意など、常に受け取るのが当然だと勘違いしたまま年を取り、「何事も自分が望めば人から与えられるのが当然」の認識になってしまったから、自分達は常に「受け取る側の人間」だから何をしようと加害者としての意識はなく、常に何をやっても被害者側なのでしょう。

 

 

たとえるなら、巣立ちしないまま巣の中で成長し、一度も飛び立つことなく巣の中で一生を終える鳥のようです。そう考えると、哀れですね。

 

心に年齢は無いのだから肉体と違って、自分で気づかないとずっと成長しません。いくら与えられても本人が気づいて向き合おうとしない限り、ずっと止まったままでしょう。

 

私へのいじめは環境も原因かもしれない

あるいはここが埼玉という事もあり、年長者の中に部落出身者がいるのかもしれませんが。(日〇組の勢力が強かった地域というのもあるかもしれません。いじめ主犯はそろばん教室を開いていますから。)

 

いずれにせよ、被害者の私が生まれる前の話ですし、全く関係がありません。祖父母も現在の家を建てたのは55年前。戦後に東京から移ってきた人間なので関係がありませんし。(相続関連で戸籍取りに行ったので。)

 

「実るほど、首を垂れる稲穂かな」自分はそういう年の取り方をしたいので、この気持ちを忘れないようにします。

「内面」に気づいていく時代にしていこう

私としては現在含め次の世代、さらに次の世代たちが自由に、それぞれの生き方を尊重した世の中になってほしいです。

 

今を生きる私たち一人一人がほんの少し行動に勇気を出して変えていきましょう。誰か一人がほんのひとかけらでも勇気を出せば、それは他の人の心に小さなかけらを残します。ほんのひとかけらを気づいた時に行えば、他の誰かの中にまたかけらは残ります。日常生活で毎日いくらでも見ているのに、気づかないだけです。

 

間違えない人間なんてこの世にはいません。大事なのは間違えた後、どうするのかです。

 

私達今を生きている人間達が、今までの生き方を見直し、大切な事を学んでいけるように人に優しくありたいものです。もちろん、表面だけの言葉や態度でなく、本当の意味で「優しさ」を理解する人が増えれば、互いを許容した少しは生きやすい世界になっていくでしょうから。