私相続後に受けたいじめなどはこちらの記事です。

 

相続から7年、初めて家を空けました。実家に帰って、帰り道は車中泊しながら観光して戻ってきました。

 

今までは空いた我が家に対して、近所の方々が何をしてくるのか分からなかったので怖くてできませんでしたが、勇気を出して一度離れてみました。

 

近所の人達がおかしい人物だと再確認できた

近所の人達の行動は、私は親に話していたので事情は分かっているのですが、やはり非常識だという事です。「ああいう連中には天罰がくだる。神様は見ている。」「放っておけばいい。ああいう連中は治らない。」との事でした。

 

また、友人たちも「他人の家の事なんてその家庭の事なんだし、頭おかしいんじゃないのその人達?」といった回答で、皆近所の連中がした事に対して顔を曇らせ、ドン引きしていました。

 

もちろん、要点だけ簡潔に話しました。一言で言えば、「相続してから嫌がらせや陰口をされている」という事だけです。それですら「あなたの近所の人達のしている事はおかしい。」っていうのが私の周囲の一般的な人々の感想でした。「私の近所の人がおかしい」と全員が解答しました。

 

誰かが相続して暮らし始めたからって、ただ近所に住んでいるだけの赤の他人たちが、相続した人を一方的に集団で叩くのはおかしい。

 

私はそのいじめを7年受けているので、「まぁ酷いわなぁ」って、程度に慣れてしまっていたのですが、話を聞いて激高する人もいました。私の近所の連中のしている事がどれだけ鬼畜で非道なのか、私の近所と全く関係のない第3者の反応を見て改めて実感しました。

 

「世界は変わり続ける」という当たり前の事実に気づいた

私は5歳の頃に今の実家がある浜松へ引っ越してきたのですが、それでも久しぶりに返ってきた浜松は、新鮮でした。建物も変わり、違う店が入っていたり、駐車場になっていたり、大河ドラマが始まった後は、大河ドラマを前面に押し出した観光地になっていたりしました。

 

「世界は変わっていく」

 

そう、一つの場所で囚われていると気づかなかった実感が、あらためて押し寄せてきました。世界はどこもずっと動き続けている、変わり続けている。同じままなんて一つもない。

 

こんな当たり前の事実を忘れていた自分に気づきました。

 

新たな選択肢が増えた

父と義母はキャンプにハマっているらしく、私が帰ってきたら、キャンプ場を予約して、キャンプに連れていきました。

 

自分達で寝泊まりする場所を確保し、組み立て、火を起こし、ご飯を食べる。

 

「なんだ、人間ってこんなシンプルなんだ。」

 

空を見上げれば、昼は鳥が空高く飛んでいて、ときどきキャンプ場に降りてきたり、夜になれば星が綺麗で、火の明かりが頼もしく、そして楽しい。

 

キャンプには自宅のような安全なんてありません。薄い布がそれぞれの家であり、寝場所です。トイレもシャワーも他人と共有です。自分一人が生活しているわけではないのです。

 

「自然の中では、何者でもない。社会の肩書も枠も、人間関係も気にしなくていい。何もかもを取り除いた自分は今、ここにある。」

 

知識としてわかるのではなく、行動したことで実感として自分自身の心が納得しました。

 

「仮に相続した家や財産が無くなっても、なんとかなる気がする。」と、新たな選択肢を自分は持ったのです。

本当の意味で「手放せる勇気」を手にしたのです。

 

もちろん、私は現在の相続した家を手放す気はありません。しかし、手放して別の地域でも暮らしていけるし、なんとかなると、心が実感できたのはとても大きな収穫でした。

 

いじめのちっぽけさに気づいた

ここに決定的な違いがあります。他人に集団で粘着してコソコソ陰口を言い続け、そこから離れる事ができないいじめの集団と、自分の意志で離れ、慣れない事に挑戦している自分。

 

自分の意志で行動している人間と、集団にならないと何もできない人間。自分と彼女らの根本的な器の大きさが違うと実感したのです。

 

「あんなに小さいのか、あいつらは。」近所の連中がいかにちっぽけでくだらない存在か。私の心にあった執着は既にありません。自然や美しい景色、楽しい事を考える時間の方が充実しているからやられた事を恨み続けるだけ時間の無駄だと本当の意味で実感しました。

 

被害者にしか分かりませんが、いくら頭の中でいじめをする連中に構ったり気にしたりするのは時間の無駄だと分かっていても、どうしても悔しくて、許せなくて、気づいたらやられた怨みで思考が一杯になってしまっていたりします。結局は自分も加害者たちに執着している「磁石の片割れ」になってしまっていたのです。

 

私はこうして自然の中で、あのいじめ集団がいかにちっぽけなのかを実感したため、本当の意味で気にしなくなりました。本当の意味で自分の中の執着に「気づいた」のです。

 

完全に自分を取り戻した

私は相続前は、仕事の休みに車中泊などで、観光地に行ったりと、旅が結構好きな人間でした。

 

しかし、相続後にいじめを受けて、引きこもり、ただの外出さえ恐れるようになって、特定の場所しか出かけられなくなったりしました。吐き気をこらえ、少しずつ、少しずつ、何年もかけて行動範囲を広げていきました。

 

そして相続から7年、ついに自分の意志で自由に県外へ行けるようになりました。相続前の自分を取り戻したのです。ただし相続前と異なり、心があの頃より成長した実感があります。今考えると、大した苦労ではなかったかのように感じます。

 

当時はあれほど先が見えない絶望的な苦しみ、たとえようのない苦しみだったのに、今ではなんて事はない、思い出して苦笑するくらいの軽いものになりました。

 

「レベルアップのための試練を乗り越えたのだ」という自負と自信がつきました。

 

今の私は「あの時死ななくてよかった、生きていてよかった!」とハッキリ言えます。

 

相続した家に帰ってみると・・・

私は相続した家に1週間ぶりに帰ってきました。不安でした。

 

「近所の連中が自分の不在の間、何をしてくるか分からない」

 

だから今まで、家を離れる事が出来なかったのです。

 

しかし、帰ってみると、家を離れる前と変わりませんでした。私の杞憂に終わりました。

 

「結局はあの連中は口先だけで、どれだけ人が集まろうと自分じゃ何もできないんだな。」

 

仮に何かされていても、その時は警察に通報するだけです。あの連中は結局はちっぽけな連中だという事に変わりはありません。

 

あらためて本当の意味で決着がつきました。

 

その後

私は父から古いテントなどをもらったので、自分でキャンプ場を探したり、キャンプの事をもっと知ろうとしています。新しい趣味がまた一つ増えました。

 

近所の連中の会話が聞こえてきても無視しています。というよりもう彼らの言葉を言語として捉えていません。「外で亡者が呻いている」「野犬がキャンキャン吠えている」というように、すでに私の中ではもう人間の定義から外れています。

 

今回の外出であの連中は「いなくてもいい存在だ」と実感し、心の中で完全に決着がついたので相手にすることはもうありません。もちろん、ネタになりそうなことが起これば記事にしますが(笑)

 

彼らは私にとって、その程度の存在になりました。