私は相続後に初めて実家に帰りました。そしてキャンプに行って、実家にあった私の荷物などを持って我が家に帰ってきました。7年以上置いてきていた母の形見もです。

 

帰りは自分の車の中で一泊して、観光して帰ってきました。軽自動車ですが、椅子を限界まで倒し、持ってきた敷布団を敷き、寝袋をかければ意外と眠れます。相続してからいじめに遭うまでは、定期的に休みの日にそうして出かけたりしたので、かつての自分に戻ったのです。

 

私は山中湖など富士山周辺をドライブしながら一般道で帰りました。写真などで景色を撮影して、スマホの待ち受け画面やホーム画面にしています。

 

これは山中湖で撮影した写真です。実際の景色を見ることでカメラでは伝えられない迫力を実感することができます。私はこの世界の広さに、改めて実感を持って気づきました。

 

いじめや嫌がらせなどを受けてしまうと、どうしても視野が狭くなってしまいます。そんな時は出かけましょう。自分が忘れていた「何か」を思い出せます。

 

私の場合は挑戦する意欲や冒険心といった、ご近所いじめを受けていた頃に無くした「ものごとへの感動や、人の手に余る大地の畏敬を感じる心」を取り戻しました。

 

「私がいじめを受けている周り近所の土地の大きさはこれくらいかな?なんだ、こんな小さな場所でウジウジ考えていたのか。」私は自然に還り、自分の悩みのちっぽけさを実感しました。

「自分はこんな大きな世界で生きているんだ。まだまだ知りたい景色がある。」心の中に再び光が灯った感覚でした。

 

視野が狭くなると、毎日が同じことの繰り返しに感じてしまいますが、毎日は同じではありません。同じなら天気など変わるわけがありません。地球に生きるすべての生き物は生涯変化を続ける生き物です。変わっていく事こそ太古の昔から続く摂理なのです。

 

 

 

写真だけでなく、帰りに感じた感情も大切な財産です。

 

夜に山中の一般道を車で走行していました。5,6匹の鹿の親子を何度か遭遇しました。夜に目だけが光る、軽自動車と同じくらいの高さの動物が道路の端にいるのです。

 

「少し怖いな」と感じるこの感情も私には大切な財産です。景色の雄大さ、野生動物の逞しさ。

 

私の生きている場所はこんなにもちっぽけだった。

 

キャンプをして、車中泊をして、私よりも大きな世界はたくさんあって、私はこの世界の中でいかにちっぽけな一人の人間なのか。

 

自然の中で私が理解したこと

自分がいかにちっぽけな存在であるか、実感して納得することがこんなにも嬉しい事なのか。自然への畏敬、この美しい世界に生まれる事ができた感謝の心が湧きました。

 

自分を卑下するわけではありません。だから人より他人を優先する気もありません。自分の言いたいことは言うし、誰かと争うことも間違えることも続くでしょう。

 

しかし、人間の自尊心として「謙虚である」ことの大切さの本当のあり方を理解したのです。

 

自分を下げず、他人も上げず、ただありのままを認める。

 

これが本当の意味での謙虚だと私は考えます。素直とも言いかえられます。

 

「水清ければ魚住まず」

 

己の中の善も悪も知るから人はバランスが取れる。だから幸せに生きたいのなら、認めがたい感情も認めるのが一番楽だと気づきました。

 

私自身、近所の人たちに突然一方的に七年も嫌がらせをされ、加害者たちが被害者面をして警察を味方につけた非道さに、自分で抑えきれない憎悪を燃やしていた時期が何年もあるからです。「こういう感情を持つのは良くない」そう考えるほど私の憎悪は膨れ上がりました。逆に「こうした感情を持っていいのだ」と認めることで静まったのです。今まで認めることでなぜ静まったのか、よくわからないままでした。

 

私が見つけた心というものの「答え」

人間の心の正体は、理性と感情の連結です。

 

憎しみや怨みも自分の中に発生した「自分の感情」なのに、私自身が、私に嫌がらせをする人たちと同じように、「そういうことを考えるのは良くない」と、自分自分の理性が自分の感情を責めることに加担しているのだと気づいたのです。正の感情は歓迎するのに、負の感情は拒否をする。正も負も自分なのに、自分の一部を否定していたのです。

 

そもそも快か不快のどちらかしか感じない脳の感情の部位(偏桃体)に、説得をしても意味がないのです。仮に現在の歴史の仮定があっているならば、人間の理性(前頭葉)は後から発達したものであり、理性が作り出した善や悪の概念、そして法律を原始的な脳である偏桃体には理解することができません。

 

「こっちの道理が正しいのだ!」と自分を無理に説得すること自体が自分への攻撃なのです。なぜなら理屈を理解する機能が感情にはないのに理解をさせようとしているから。

 

「心」というものはどうあがいても失くせません。そして「心」からは良いことも悪いことも発生します。ただ道徳や倫理を自分の心にまで押し付けて、湧き出してくる負の感情だけを悪者にしている自分に気づきました。

 

「心」。言い換えるなら感情を感じる部分の脳は、原始的なものであり、感情がただ湧き出てくるものなのです。人間は感情が湧いてから、理性が働く。そして感情が湧く場所を止められない以上、湧いた後にどうするのか。判断するのは理性の仕事です。湧き場所自体を破壊しようとする事は人間であることの否定であり、自傷行為なのです。

 

たとえば流れる川が感情ならば、理性はダムの役割を果たしているといえるでしょう。そして感情からは綺麗な水も泥水も流れてきます。

 

抑えられた感情が爆発すると、理性が働かなくなります。よく事件で犯人が「カッとなってやった」と供述することがありますが、まさに洪水ともいえる感情を理性のダムが壊れてしまい抑えきれなかったと言えます。

 

私は怒りや怨み、憎悪といった負の感情を否定する気はありません。それは私が自分自身を大切に思っているからこそ発生する感情だからです。だから私は、私自身の汚さや醜さを含め、自分が好きになりました。

 

自分自身が自分の一番の理解者になれば、これほど心強い味方はいません。理性の私と感情の私は一蓮托生であり、どちらかが欠けても「私」ではないのです。

 

これからも私は「綺麗な水も泥水も内包した自分」であることを自覚して生きていきます。

 

もちろん、「私は人に怨みを抱えているんですよ~。」なんて誰かに言う気はありません。トラブルになりますからね(笑)

 

自分が納得していればそれでいいのです。これは私の人生経験の果てに到達した「答え」なのですから。

 

生まれた時代も生活環境も人はみんな違うから、みんなが全く同じ方法、同じ「答え」になるとは思いません。(もちろんしっくりくるならそれが「答え」なのでしょう。)だからこそ皆さん自身の探す納得する「答え」の参考になれば幸いです。

 

 

 

まとめ

  • 外部からの刺激=自然災害(自分で発生条件を制御できないもの)
  • 外部から受ける刺激による喜怒哀楽=川(自然と湧き出るもの)
  • 理性=ダム(フィルターとなって川を浄化する)

 

以上の結果が、顔や言葉として外に現れる。川とダムは自分の制御下にあるので自分で制御可能。バランスを意識する。

 

自分の中の快だけでなく不快の感情も全部自分のありのままを受け入れる。

 

自分の不快な部分を受け入れたから、他人が自分と違うことも受け入れられる。