※私の記事を読んで、嫌な事を思い出してしまう方もいるかもしれないので閲覧注意です。

 

今回は学生時代の11年間、相続後の7年のいじめを受けたことから学んだ、いじめの被害者が生きる上での世の中の理不尽と、乗り越える考え方を紹介します。参考になれば幸いです。

 

いじめを無くすことは不可能

まず、前提としていじめをこの世からなくすことは、生命が滅ばない限り、無理です。歴史上、いじめは昔は「差別」、「弾圧」など言葉を変えて古来から世界中で発生しています。

動物間でもいじめは起こります。つまり、無理です。

 

なぜなら自然の中で生物が生存、繁栄するための本能の一つだからです。

 

現在では、人類は外敵に脅かされることもなく、平穏な日常を送れています。そのため、人間のこの本能は「娯楽」と化しました。

 

 

私が受けたいじめ、差別の例

  • ちょっとしたことで頭を叩かれる。
  • 理由もなく叩かれる。
  • 何かの技の実験台にされる。
  • 変なあだ名をつけられる(「耳デカ星人」「サル」など。)
  • 筆箱やノートが隠される。
  • 掃除当番を押し付けられる。
  • 同級生の異性の前でズボンを脱がされる。
  • トイレに行くのを邪魔される。
  • 陰口を言われる。
  • ありもしない悪評を流される。
  • 苦情を言えば集団で逆恨みをされる。
  • 苦情を言うと「脅迫された」といじめ加害者が被害者を警察に通報する。
  • 村八分。

 

主にこれらのいじめを学生時代と、相続後の近所からされました。学生時代は小学校から高校まで同級生。近所は50~80代くらいのお年寄りが主犯格です。

 

私は現在38歳なので、いじめを受けているのが小学校1年から高校3年までの学生時代と相続後の現在までを含めて合計18年。人生の半分はいじめを受けてきた「歴戦のいじめ被害者」というツワモノとも言えますw

人生でいじめや嫌がらせを受けてきた日々を合計するなら5000日は越えるのではないでしょうか?ここまでいじめを受けて、それでも乗り越えて生きてきたことが、現在の私の「自信」とも「誇り」とも言えます。

 

私の実体験から学んだことは、いじめは学生も大人も関係ありません。社会人でも老若男女で起こります。テレビの報道だけでは実感を伴わない方が多いのも当然です。

社会人になると知恵をつけて、隠蔽していることが多数の陰湿で卑怯極まりない子供のいじめより悪質なことが多いからです。

 

 

いじめの加害者が謝る日は来ないと知る事。

私の現状も含めた実体験ですが、いじめ加害者が自分から罪を認めて謝る日は来ません。自分のしたことの責任をとれないほど弱いからいじめなんて事をするのです。

 

それどころか逆恨みしている事が多数です。これは私自身の実体験から来ています。私が警察に通報されたのも、何度も苦情を言っても風評被害や陰口をやめない近所に「あなたにされたいじめが苦しい。」と内容の苦情の手紙を入れたからです。

 

いじめの加害者は被害者を自殺寸前まで追い込もうと何も反省しないのです。被害者の身や心がどうなろうと知ったこっちゃないのです。あるのは加害者自身の保身だけ。

 

ただの勝ち負けでしか物事を見れないので人の心を傷つけても、罪悪感も自覚も全くありません。もし芽生えても自分にとって都合が悪いので絶対に認めないのです。

 

自分の心の傷には敏感なくせに他人の心の傷は考えもしない。若い方はもしかしたら自分のした事と向き合うこともあるので、謝罪をするかもしれませんが、自分の心をごまかすことに慣れている人はもう取り返しがつきません。相手が「改心する」なんて考えるだけ時間の無駄です。

 

どんな言葉も伝わらないのに、私たちがいじめ加害者を恨んだところで、相手の同類になるだけです。そんなヘドロみたいな縁に執着するくらいなら、さっさと断ち切って自分の新しい、楽しいと思う縁を探す方が建設的です。

 

学生時代のいじめは社会人になればどうでもよくなる

学生時代のいじめは、学生の頃は辛いものでしたが、高校を卒業するころにはほとんど無くなりました。進路が違うからです。私は高校を卒業してからは、学生時代の同級生とはもう会っていません。相手も仕事などがあるため、時間が合わないし、現在住む場所から離れる事もあるのでいじめも無くなりました。

 

思春期に私は同級生の女子の前でズボンを脱がされたことも、教室で全員におならを聞かれたことも、下校中にトイレを我慢できず、漏らしたこともそれを同級生の女子に見られたこともありますが、今、この記事を書いている時に思い出しました。それくらい学生時代の事はどうでもよくなるのです。「そういやそんな事もあったなぁ。」みたいな感じです。

 

新しい経験や体験を重ねるうちに忘れ、時間が解決してくれることもあるのです。

 

私は今後も学生時代の人間関係は全部捨てたままでも問題ないと断言できます。うちの祖父母も母も叔父も、学生時代の人が来るなんてことは、葬式の時でも一切ありませんでした。そもそもお互い年を取って、相手が学生時代の相手かどうか分からなくなります。

 

社会人になれば選択肢が増えます。その分、いじめからも逃れる選択肢も増えます。楽しみも増えます。「生きててよかった!」と断言できます。

 

心を鍛える方法

心を鍛える方法は2種類あります。体を鍛える事と、考え方を変える事。

 

まずは筋トレです。筋トレをすることでアドレナリンが出て、対抗心が湧きます。実は筋トレをして体が変わって自分に自信がつくほど、他人への加害欲求は小さくなっていくのです。自分が加害者と同類のいじめ加害者になってしまうと危惧する方は「そんな心配は不要。」と言っておきます。

 

そして考え方を変える事です。考え方を変える事としては、読書や映画、漫画、ゲームなど視野を広める趣味や遊びを行うなどです。自分の状況をギャグ漫画に例えるのもアリです。自分がツッコミ役で加害者たちの行動や言動に心の中でツッコミを入れて、現実をギャグ漫画に変えてしまうのも楽しいですよ。

 

いじめ被害者が唯一、自分をいじめた加害者に執着してしまう危惧は残りますが、その執着を乗り越えたら、一歩成長した自分を実感して、もはや相手と自分のいる場所が変わります。

 

ギャグ漫画の世界にしてしまう

私は現在のいじめ加害者たちを「ヒマゴン(相続後のいじめはほぼ専業主婦の連中で、わざわざ私に嫌がらせをする時間を作っているため)」と心の中で名づけ、ここ数年の、毎回私が外出したり、家の明かりがついた際にどんな時間帯でもわざと窓を閉めたり、時には向かい3軒で私が家の門を開けようとする際に、連携して大きな音を立てて窓を閉める嫌がらせなどをしてくるご近所さんたちに対して、まるで自分がゲームや漫画の主人公になったかのごとく、モノローグやセリフみたく頭の中でツッコミを入れています。

 

「銀魂」や「ギャグマンガ日和」など、いろいろなギャグ漫画の世界観に自分の脳内で相手を変えてしまうのです。

 

相手のやる事が変わることはありませんが、相手を見る自分の視点は変える事ができます。そしてこのような事をしていると、生きるのも楽しくなりますし、失敗もネタに変わります。

 

時間が経てば「あ~そういえばこんな失敗したなぁ。」と思い返すのも楽になります。つまりトラウマと向き合いやすくなります。

 

ギャグ漫画を読んで笑うのもストレスには効果的です。私自身、ストレスが溜まったら一人でカラオケに行って歌うか、漫画喫茶に漫画を読みに行きます。

 

 

いじめの被害者がいじめを昇華して起こる事

  • 精神が本当の意味で大人になる。
  • 攻撃を受ける側の気持ちがわかるから、様々な場面で配慮ができる。
  • 他の世代のいじめ被害者たちの参考になる。

 

いじめの被害者が自分の中でいじめを昇華できずに起こる事

  • 怨みがいつまでも忘れられず、犯罪に走る。
  • 逃げ癖がつく。
  • 加害者になった際、より酷いいじめに発展する。
  • 犯罪や自傷行為をする。

 

加害者も被害者も立ち位置が違うだけ

いじめというものは無くすことができません。そのため、いつ自分が加害者側になるか、被害者側になるか、不安になります。

 

しかし、加害者になったことを反省するのなら、ほかの場所では加害者にならないかもしれないし、いじめになる前に未然に防ぐ可能性も出てきます。

 

生きている限り、人生は選択の連続で、時には誤った判断もするでしょう。自分が思わぬところで加害者になっているかもしれません。そんな時は自分を責めないで、いつかほかの誰かに優しくしてみればいいと思います。

 

私自身も、家族の残したものを相続しただけとはいえ、「私」という誰かの家を引き継ぐ存在自体が、「誰か」の心のコンプレックスや我慢を爆発させたから、近所中からいじめを受けたともいえる、被害者とも加害者とも言えるのです。

 

視点の数だけ人のエピソードは数があり、私たちの視点では事前に知ることができません。だからこそ人生は面白いとも最悪だとも言えるし、幸せや絶望が生まれるのです。

 

この世で自分だけが被害者ではないし、自分だけが加害者ではないのです。みんな自分の視点からは「自分だけ」が特別に感じるものです。

それでいいんですよ。「お互い様」だから許容しあって共存できるのです。「みんなが特別なこと」を当たり前のように忘れているから争いが生まれるのです。

 

言ってしまえば、必要以上に被害者になるのも、必要以上に加害者になるのも、誰もが「自分を特別だ」と根底に思っているから起こっているのです。だから被害者はいじめを受けて悩むし、加害者はいじめを止めないのです。

 

そしていじめ被害者は、「いじめられる」という貴重な体験をするからこそ、しなやかでタフな人間になる事も可能なのです。いじめを受けた経験を、自分を成長させる糧に変えられるチャンスでもあります。(私自身、いじめを受けている時はそんな心境ではありませんでしたが)

 

現在振り返っているからこそ言える事ですが、乗り越えたら後の人生の心のタフさは一生ものです。

 

対立が生まれるのはいつも人の心からです。「善悪の視点の向こう側」へ進んでみましょう。「善も悪も自覚できる」事こそ人間の良さの一つです。自覚できるからこそバランスが取りやすい。

 

人間社会はそうやって誰かに親切も悪意も循環しているのです。私はできれば「悪意の循環が薄まった世界になってほしい」と考えています。三歩進んで二歩下がって、少しずつ歩いていきましょう!