「自分が気に入らないから」と、相手を貶めようと努力する人間より、「自分自身を高めたいから」自分のレベルを上げる努力をする人間になりましょう。

 

他人をけなし始めた時から、他人をけなさない人との差は出てくるのです。

 

人間の地力に差が出る

    明確です。

     

    他人をけなす努力をする人はその場所から進まないか、さらに下へと落ちていきます。自分達の心の慰めあいという時間つぶしとその場しのぎだからです。

     

    しかし、努力をする人はその場所から進みます。ほんの些細な事にも目を向け、興味を持ち、行動しようとするからです。

     

    私はこの差を階段にたとえて考えています。努力する人と他者をけなす人、両者が1階から登り始めるとします。片方が少しずつ上り始めたのに対して、もう片方は階段を上り始めた人間をその場でバカにします。その場で一歩も動かず、座って喋っている方が楽だからです。

     

    1年後に他人をバカにする人がまだ1階で喋っている間に、努力をする人は2階にいます。1階の始まりの差はゼロでした。しかし、1年で1の差が出るのです。階段の段数でたとえるならもっと大きな差です。これがさらに1年、2年と重なっていけばどうなるか。努力をする人はある日、階数を飛ばす準備もできて、チャンスに気づいて一気に上がるかもしれません。そうすれば、やがてどちらからも相手が見えなくなります。

     

    現実は階段の計算のように単純ではありません。目に見えにくい、一歩も進んでいないと感じる事も多い。それこそ1年後は下がって上がってを繰り返して、プラスマイナス0なんてこともあるでしょう。悩む人も多いです。

     

    しかし、自分が進んでいるからこそ階段を上がったり下がったりするわけで、歩いていない人にはその悩み自体が生まれません。目の前の階段に登ろうとすらせず、他の人間をつかまえて話し相手にし、いつまでも階段から目を逸らし、歩こうともしない人とは大きな差が出ます。

     

    仮に階段を上がったり下がったりした人と、他者をけなす人が同じ場所に現在はいたとしても、両者には「階段を上り下がりした」という明確な差が出ています。この経験が他で生きる事があるのです。

     

    完全に登り切れなくても無駄ではありません。中途半端に終わっても、「中途半端まで進む事ができた」のは事実です。そうやっていろいろな階段に挑めばいい。スタミナ配分、上る時の姿勢、栄養食や水分の準備。必要なものは少しずつ学習できる。そうすれば次の挑める階段も分かってくるし、増えていく。

     

    私も幼い頃は正義のヒーロー、ひいては警察官に憧れました。叶いませんでした。では自衛官に挑んだものの、合格しても、依然患ったパニック障害により、精神の完治の概念がないため、入隊直前に軍医に落とされました。夢は消えました。そうやって、階段の一歩目で終わったこともたくさんあります。遠回りもたくさんしました。引きこもりもニートも経験して、今も進んでいるのかわからない事もあります。

     

    人生は目に見えるものではありません。私は階段にたとえましたが、少しずつ自分の人生を進んでいます。自分の人生の最期にどんな景色が待っているのか。この世界にはどんな景色が待っているのか、どんな階段があるのか。それを楽しみに自分の人生を高めていく方が楽しいと、私は思います。

     

     

     

    おまけ:近所と私の7年の差

    近所→私の相続後、誹謗中傷を始める→苦情を言われたら人のせいにして逃げる→被害者を町から追い出そう→延々と愚痴で加害者たちで慰めあい続ける。

     

    私→相続後、近所からの誹謗中傷や名誉棄損で引きニートになる→筋トレと読書で立ち直り、苦情を言う→いじめの主犯に脅迫されたと警察に通報される→バイトをしながら勉強してITパスポート試験に合格→バイト先は一旦取引停止(物流の関係)で無職に。→精神は立ち直っているので無職期間でサイクリングやドライブ、バードウォッチング。他のバイトや派遣の仕事を探す予定。

     


     

    はい、再び無職になりましたwただ、7年前と異なり、精神がほぼ完全に立ち直っているので、自分のペースでやりたいことをやって生きていく予定です。

     

    相続して幼いころから信用していた人々から突然の陰口や無視など、いじめを受けた時、自殺未遂をしようと包丁で頸動脈を切ろうと何度もしたあの時。

     

    絶望した中で、死を選ぶほどの勇気もなく、最後の心の底から出てきたのは「なんで自分だけがこんな目に遭う!?」という理不尽な状況への怒りでした。そしてがむしゃらにもがき続けました。どこの何を相手にすればこの苦しみは逃れられるのか。当時は雲を掴むみたいな話でした。だから「とにかく思いついたことをやってみよう」と、ふとしたきっかけで知ったスクワットチャレンジから始めたのです。(詳細は「引きニート日記」に書いてあります。)

     

    そして一人でいじめの主犯に苦情を言いに行けるようになりました。いじめの主犯に一人で4度苦情を言いに行くくらい精神は強くなり、孤立しても気にしなくなり、趣味は筋トレ、サイクリングやドライブ、読書、バードウォッチングなど、前向きな人間になりました。フルタイムのバイトをしながら勉強をして、約1か月でITパスポート試験に合格しました。

     

    一方で7年経っても人のせいにして逃げ続け、周りで陰口や嫌がらせをいまだに続けるご近所さんたち。主犯はもちろんその取り巻きや加担した周りも「なかった事」にして逃げるだけ。反省もせず、同じことを繰り返さないように学習する気配すらありません。

     

    自分のした事を反省もせず誰かのせいにして逃げて、「面倒ごと」が終わるまでやりすごすだけ。自分さえよければそれでいい。

     

    この人達は時間が経って次にいじめを主導する人が出てきたら、何一つ学習せず全く同じようにいじめに加担するでしょうね。そして同様にいざとなったら主導した人を皆で責めて自分は反省しない。

     

    内面がひとつも成長しない事がわかります。こんな事を死ぬまで続けていく人生を皆さんはどう思いますか?

     

    私もご近所さんも現在は無職で(いじめの取り巻きは専業主婦。ただし主犯はそろばん塾を週に3日、約2時間自宅で開く)平日は家にいますが、私とこの周りの近所の人たちでは、7年間で内面は差が出ているのです。

     

    私はこの無責任な加害者たちから受けた苦しみを、加害者たちと同じような陰口や風評被害の流布など、同じ方法でやり返すことはせず、それよりも自分の人生でやりたいと思ったことをやってみる事で充実させ、加害者が自分の苦しみを理解しようともしない事への憎しみや怨みに執着するよりも、前を向いて楽しい事で心を埋めていきました。

     

    加害者に執着するだけ時間の無駄だという事は、7年間で未だに誰一人主犯も取り巻きも加担者も、10人以上の加害者たちが謝らないどころか、その多くは被害者の私のせいにして逃げ、私の悪いところを重箱の隅をつつくように見つけては自己正当化を続けているのを見ればわかります。

     

    当然ですがそんな事をしても自分のした事はなかった事にはならないし、相手の悪いところを指摘した所で薄まったりする事もありません。加害者の「身勝手な帳消し理論」なんて通用しません。連中は一生気づかないでしょうけど。

     

    連中は自己保身で頭が一杯なので、被害者の心情を理解しようなんて微塵も考えません。おそらくほとんどの加害者は被害者へまともに向き合う事は一生ありません。だから相手にするだけ時間の無駄です。7年間の私の実体験が裏付けています。少なくとも私の近所10人以上、誰もが自分たちのしたことを「なかった事」にしています。主犯に至っては被害者を逆恨みしている危険人物です。

     

    安全なところから誰かを攻撃し、いざとなれば人のせいにして逃げて、加害者同士で被害者面をしてウジウジ文句を言って、無理矢理にでも相手に悪いところがあると指摘し、責任をなすりつけようと必死な近所の主婦たちと、自分の人生で経験できる事だけに集中して、新しいやりたいことを見つけて、人生を充実させるためにいろいろな挑戦や経験を積んでいく私では、精神年齢がすでに子供と大人くらい離れていると感じています。(肉体の年齢はあちらの方が一回り二回りは上ですが)

     

    私はあの連中からの嫌がらせで7年も人生の時間を迷い続けましたが、自分なりの答えにたどり着きました。人生はどれだけの時間を費やしたのか、その結果に関係なく、今この瞬間に「あぁ、今幸せだなぁ」と感じるなら、それは良い人生だったと言えるのだ、私はそう思います。