私は今でも引きニート気味の傾向があります。

 

これはご近所いじめを受けていた頃が一番酷かったです。

ちなみに今も近所からは外を歩いていると不審者、犯罪者を見かけたかのように相手が家に入って、露骨に自分の家の窓から監視をしてきたりします(向かいの家のいじめ主犯とその取り巻き、そして周り近所もほぼ同様の事をしたりします。)。大きく避けてジロジロみられてすれ違ったりなどもあります。しかし、あまり気にならなくなりました。

 

では、どうして気にならなくなったのか。どうやって引きこもりやニートの状態から脱却できたのか、自身の実体験から得た私の考え方を紹介します。

 

人は自分が思っている以上に他人の事を覚えていない

これは実際その通りなのですが、すれ違う他人の容姿などをいちいち覚えている人はいません。3日以上覚えている人はそれ以外にやる事のない暇人。つまり、ニートと変わりません。私たちと変わらないのです。暇を持て余して、それ以外の事柄に目を向けていないし、経験もないから覚えていられるのです。

 

もちろん特殊な格好をしていたら例外などはありますが、その人の事を3日以上話題に出す人なんていません。大抵は1回話題に出て終わりです。それくらい他人なんてどうでもいいのです。自分自身から見たら引きこもりやニートで世間体や体型の心配はありますが、他人は自分の生活を脅かすような事がなければ、そこまで気にしていないのです。

 

私もご近所いじめを受けて引きこもっていた時期は、ずっとやられたことの怨みや怒りが強かったのですが、再び働きだしたら近所の事を考えている時間などありません。限られた時間で自分の夕食や家事に趣味を楽しむ時間にと、時間をどうにかして作る事しか考えられないのです。毎日嫌な事を考えている時間など無駄な上、自分の現状も全く変わりません。それよりも新しい情報が次々と入ってくるのでその対処に時間を追われます。

 

思春期によくあるいじめについて

学生時代、「エロ本を買いに行かされる」というパシリをやらされましたが、これはハッキリ言って、社会人からすればかなりどうでもいい苛めです。なぜなら、私自身が社会人になってから、書店で2年アルバイトをした時に売る側の立場になって実感しました。

 

私が思春期に受けたいじめについては、この記事に書いていますが、マジで今となってはどうでもいいものです。「ふーん、で?」って感じです。

 

売る側の人間は売り上げになっているなら問題ないのです。本が売れなければ働く場所がなくなります。路頭に迷う事になるのです。だからエロ本だろうと何だろうと商品を買ってくれるならありがたいのです。

 

そもそも私、店員時代に女性客から「男性視点で見てどんな本がエロいか教えてください」と言われ、アダルトコーナーで自分で勧めたことがあります。(相手の人は私がすすめた本と違う本を買っていましたが。)

 

私はそれでも相手の顔を覚えていないのです。失敗以外はそれくらいどうでもよいのです。

 

もう一つは中学生の頃、漏らしてしまった事があるのですが、それを同学年の異性に見られたことがあります。しかし、私は相手の顔を今は覚えていません。漏らした場所も覚えているけど、見られた相手が誰なのか、さっぱり思い出せませんし、当時も言いふらさないか心配でしたが、数か月で忘れました。日々の部活や勉強に追われていたからです。

 

実は自分が思っている以上に他人の失敗って、大して気にならないものなのですよ。みんな自分が失敗する事だけを恐れている。だからこそ失敗した側は、その心理を経験することによって強くなることができるし、学習する機会を得る事ができる。私は学生時代の強烈に覚えている失敗は繰り返したことがないし、早いうちに経験できてよかったと考えています。たとえば今度は歳を取ってトイレが近くなる際の対策を先に取れるからです。

 

いじめられっ子は歳を取るほど大器晩成型であると自分の実体験から言えるし、狭い学校から卒業して社会に出れば、もう気にしなくなるものです。

思春期は人の目が気になって仕方ないけれど、大人になって社会に出ると「なんであんな事気にしてたんだろう?」って思う日が来ます。小学校から高校卒業までの11年間なんて、社会に出てからの50年以上の月日に比べればちっぽけなものです。むしろ学びの宝庫であると言えます。

 

自分のペースで一歩ずつ進む

一度も働いたことがない場合で引きこもっている方は、部屋の中でできる事を探しましょう。たとえば一日に1回、伸びをする。これを1週間続ける。

 

次の週は意識して利き足とは逆の足で立ち上がる。これを1週間続ける。次は屈伸を1日1回する。次の週は・・・と必ず1回やる事を決めるのです。

 

そして実行する事。1週間で7回も実行できたことになります。次の週も実行すると、14回。次の週も実行すると21回。「自分で決めたことを実行する」ということを続けた21回もの実績ができているのです。

 

人から見たら遊んでいるだけと思われるかもしれません。しかし、一度でいいからやってみてください。自分の中に小さな自信が芽生えます。そしてその自信は自分の中にある、誰にも奪えない自信です。この世の全ては自分の心理の変化で見方がいくらでも変わります。

 

いきなり引きこもりが仕事をするというのもアリですが、それすらできない人はここから始めましょう。まずは家の外に出る事。最初は日の光がまぶしいので、家の周りをぐるっと一周する事から始めましょう。挨拶をしてもしなくても構いません。人は誰かと仲良くなろうと仲が悪くなろうと問題ありません。

 

短期でも働いてみると人の悪口は気にならなくなる

短期間働くだけでも、人の悪口というものはあまり気にならなくなります。短期間に1か月でも働いたら、その時点で他人の悪口を一日中言っている暇な人間たちと、実績が異なります。

 

「自分は働いて様々な経験をした」という自負が生まれるので、一度も働いたことのない、もしくは暇な時間を他人の難癖に割く連中とは決定的に違うのです。なぜなら、自分を変えるために行動をしたのだから。「自分の意志で決めて、自分で行動をする。」これは複数人で集まって愚痴や悪口ばかり言う人には絶対にできない事です。

 

実際、私は再び無職のニートに戻りましたが、自分の意志で決めて、自分で行動した結果、週4日、8時間働きながらITパスポート資格試験を1か月で合格した自負があるので、近所の嫌がらせを気にしなくなりました。あの連中には絶対にできない事だからです。

 

ITパスポート試験は合格しても、確かに就職などでは役に立たないかもしれません。しかし、国家資格です。国家資格を持っているという事は、自分自身の努力の証として自分の中に残るのです。

約20キログラム以上の段ボールをひたすら仕分けする肉体労働を8時間。家に帰ったり昼休みにこの教科書と過去問を勉強し、国家資格に受かったという自負。確かな結果と実績が残っています。

 

そして新しい物事へまた挑戦すればいい。それだけの話です。

一番大事なのはお金ではなく自分自身

お金は健康なら働いて稼げます。しかし、心身の健康を損ねたら何もできません。これは引きこもりやニートの方なら実感できるのではないでしょうか?お金は確かに大事なものです。今の社会で生きていくためには必要です。しかし、一番大事だとは思いません。

 

引きこもりやニートはお金に恵まれているからできること

相続前の一人暮らしの頃は、働かないと生活できないからすぐに働いていました。しかし、これまで受けたいじめにより自尊心が低かった私は、ちょっとしたミスですぐに辞めてしまう癖があったのです。なぜなら自尊心が低いから、「自分みたいな人間は生きていてはいけないと」と常に考えていて、ただの歯車が欠けても問題ないと自虐的でした。

 

相続後は家と遺産があるからほぼ引きこもっても、立ち直るための時間をじっくり取れました。今までの人生の経験、近所の方々にとどめを刺され、完全に壊れた心を見直し、本当の心の強さを身につけるための十分な時間も情報も集められたのです。

 

しかし壊れた私は自分のために遺産を使えないまま現在に至りました。家の修繕、父の医療費や生活費。数千万の遺産は私自身のために浸かっているのは一割もありません。結局今後も父の医療費と生活費に必要なので、私自身のためには使えません。

 

健康なら新しい何かのために再び歩き出せる

それでも不満はありません。なぜならこれから自分でまた働いて稼いでいけばいいから。新しい何かを自分で探していけるから。

 

だから私は「健康がこんなにもありがたい事でワクワクする事なのか!」と、実感しています。

 

おそらく相続後の近所からの嫌がらせで心が壊れたまま働き出していたら、私は人間不信のままさらに自虐が増して、未遂ではなく本当にこの世を去っていたかもしれません。

 

心身を整え直し、自分の自尊心の回復のための時間を取れたこと。家や遺産を残してくれた身内に感謝しています。

 

自分の意志で行動することができる人はたいていは孤独になりますが、孤独は悪いものではありません。人間は最期は肉体を離れてあの世へ一人で旅立つものです。孤独は常識と言えます。

 

たまたま同じ志の人が周りにいないだけで、似たような考えを持った人とは、意見があったりしますし、働いている人とは会話も続きます。悪口ばかり言っている人は視野が狭く、悪口以外の会話が続きません。決定的に違うのです。

 

私の住む環境はハッキリ言って人間の醜悪さが凝縮したような連中の監視環境ですが、それでもそれ以外の「新しい何か」が世の中にはたくさんあるから面白いのです。

 

6年を近所いじめに遭って無駄にした私が「幸せだ」といえる理由

その連中から私は今までの人生を壊され、6年無駄にしましたし、今も嫌がらせは続いていますが、どれだけ時間を無駄にしたのかではなく、今起こる事だけしか考えていません。たとえ何年経とうと何十年経とうと、その時の自分が「今日もいい天気だなぁ」と思ったら、それだけで幸福を感じられます。

 

それに人のせいにしても自分の時間は帰ってきません。引きこもったのは自分自身だし、その時人間を嫌いになった選択をしたのも自分自身です。私は自分の選択は全て自分の責任であると自覚しています。だから自分自身をコントロールできるようになったのです。

 

人間不信は未だに回復してはいませんが、自分の中で折り合いをつけてよろしくやっています。「その時のあるがままこそ自分だ」と、自分なりの「人生の答え」を見つけられた事こそ、いくらお金を払っても見つけられない本物の自分の財産だと感じているから問題ありません。自分なりのある種の「悟り」に近いかもしれません。

 

これはいくらありがたい経文や聖書の一文からでも見つけられない自分だけの答えです。

 

私はそれこそ究極の果てへ到達したと言えるほど人生とは何か、私自身の答えを求めて様々な書物や自分の経験、人の経験などをもとに考えました。本当に言いようのない苦しみを経験し続け、それでも自身の心と向き合い続けていろいろ考えながら経験しながら、ある時私自身の答えに到達したのです。

 

人生全ての経験が私を到達させたといっても過言ではありません。遠回りをしているように見えて、自分の人生に必要な道を全て通っていた。振り返るまで自分が気づかなかっただけです。

 

人間の最期に思い出す事は幸せだった記憶です。私は親戚や友人、家族の最期の顔を10回以上見届けてきたから分かります。どうせ最期に思い出すなら幸せな記憶の方がいい。加害者にやられた嫌がらせや自分の起こした失敗ばかり考えていると、最後に思い出す強烈な記憶は嫌な事ばかりです。

 

どうせ皆いつか、この世からさよならするんだから、人生なんてやりたい事やって好き勝手に生きればいいのですよ。歴史に残らない人なんていくらでもいます。私もその一人です。生きている時間が楽しいならそれでいいのですよ。

 

私は自分の答えを見つけたので、私を含め誰が働いていようとニートでいようと正直関係ありませんし、気にしていません。そんなものはどうでもいいのです。「誰か」を勝手に枠に収めているのは「誰か」でしかありません。「私」ではありません。

 

死んでから先の事なんて誰も考えません。それは生きている人間の役目です。相続した人間だからこそ言えます。部屋の物品の片づけ、大変だった(泣)