私は子供の頃から「失敗」を恐れていました。

 

「発表で転んでミスしたらどうしよう。」「文章を読むときに噛んでしまったらどうしよう」「間違えたらどうしよう。」とビクビクしながら生きてきました。

 

だから、人と接するのも怖いし、人の善意や優しさが自分に向けられることが怖いし、信用できなかったのです。「自分には人の優しさを受け取る価値がない」と勝手に自虐し、避けるような人間でした。

 

これは学生時代、小学校1年から高校3年までどこに行ってもいじめられた経験からきています。

 

私の今のブログを読んでいる方からは想像もつかないくらい、気弱で、いわゆる「優しくて真面目」としか言いようのない、おとなしい人間でした。

 

しかし、今はミスをしてもあまり気にしなくなりました。逆にミスをした人間を見る人たちの態度、目つきなどを観察するくらいの開き直りです。失敗しても内心では反省しておらず、失敗した部分の改善を試みるだけです。できないなら仕方ないと開き直り、失敗したことで必要以上に自分を責める事はありません。

 

では、どうやって失敗を恐れにくくなったのか、その経緯を書いてみます。

 

自分の死後を想像する

自分の死後、周りはどうなるのか。10年先まで考える事で、今の悩みから脱する機会を得る事もあります。

 

私は母、祖父母、叔父、学校の先輩など、今まで10人近くの葬式に参列したし、喪主も経験しています。

 

そして、「もしも自分が死んだら周りはどうなるのか。」を考えたこともあります。

 

自分が死んでも世界は続く

仮に私が死んでも、世界は続いていきます。周りの人間もいずれ悲しみを乗り越え、立ち直る日が来るでしょう。

 

時間というものはまさに平等で、生も死も、成功も失敗も、全ては昔になるのです。「人のうわさも75日」ということわざがありますが、現代は情報があふれ返っているので、75日どころか、2週間くらいで過去のものとなります。

 

言ってしまえば、どんな成功も失敗もすべては過去の出来事に変わっていく。ということです。

 

「自分の失敗なんて、世間にのるようなものじゃないし、のったとしても深く気にしなくてもいいじゃないか!時が経って風化するのだから!」と私は開き直ったのです。

 

この世に取り返しのつかない失敗というものはほぼありません。仮に取り返しのつかない失敗をしても、命で償う事は表社会ではありません。私がどのような人生を送ろうと、社会は回っていくのです。

 

起こった事はなかった事にはできません。しかし、起こったとしても普段の日常に一コマ挟まるだけで、すぐに日常に流されるのです。それは自分の記憶も同じで、細かい失敗は失敗として覚えてすらいません。大事な失敗は自分で手帳に書き留めるので、たまに手帳で見るので気にしていません。

 

大きな失敗談:仕事用の車で事故を起こした話

私は職務中に交通事故を起こしたことはありますが、翌日からまたいつもと変わらない日常に戻りました。

 

交通事故といっても、けが人もなく、バンパーがこすれた程度です。始末書も書いたし、警察を呼んで現場検証もしました。相手からは睨まれていました。

 

私は次の日、職場に出勤することが嫌で仕方ありませんでした。「ずる休みしようかな」と本気で悩んだものです。

 

翌日、勇気を出して出勤したところ、特に今までと変わりませんでした。気にしていたのは自分だけで、私自身も午後には特に事故を気にすることなく仕事に戻り、上司からも普通に仕事を割り振られ、いつものようにこなしました。

 

自分の頭の中だけで、軽い失敗が大きく膨らみすぎていたのです。

 

世の中の心配事の9割は起こらないと言いますが(体感では8割ですが)、いずれにせよ、自分の頭の中で想像した事態ほど大げさになる事は38年生きてきた中で一度くらいしかありませんでした。(近所から冤罪かけられた事や嫌がらせをされている事。よほど頭のおかしい人たちに目をつけられてしまいましたが。)

 

失敗を恐れる人は、軽い失敗ですら「人生の取り返しのつかないものだ」と自分の中で大きく思い込むのです。失敗を恐れているから等身大よりも失敗が大きく見えてしまうのです。

 

この対策として、やはり自尊心を一から見直すことが挙げられます。

私自身、自分の過去、自分自身のいじめられている時の態度など、自分自身の振り返って嫌な部分を見直し、改善することで変わっていきました。

 

過去と向き合い、過去の失敗を自分の中で等身大の大きさに変えるのです。過去の失敗は、基本的に必要以上に大きく見えてしまうものです。それは「失敗」という表面的な事ばかりが大きくなり、「失敗の内容」には目を向けていないからです。「失敗」という表面的な言葉だけが、自分の中で膨れ上がっていくからです。

 

だから客観的に失敗の内容を見ると、「実は大したことではなかった」と思う事も多いのです。

 

私にとって屈辱そのものだった学生時代のいじめ。しかし、今、客観的に考えると、学生時代の「いじりの範囲だな」と思える事も多かったと考えています。私自身の性格の問題に遭遇しましたし。現在はどんな職場でもいじめられるという事もありません。歳を取ったのもありますが。

 

 

時には失敗してみるのも面白い

これは自分で体感しないと分からないものですが、人はあまり他人の失敗を気にしません。それ以上に自分のことで頭が一杯だからです。

 

失敗を恐れる私も自分のことで頭が一杯なように、失敗をされ、迷惑をかけられた側も自分のことで頭が一杯なのです。

 

むしろ失敗した方が、話しかけられることもあります。

 

職場で普段ミスをしない人が、ミスをした途端に話しかけられる。

これは「あの人は自分とは違う人間だ」と勝手に線を引いていた人たちが、自分達と同じ人間だと共感を感じて、その人を知ろうとすることで起こる変化の一つです。

 

時には弱い部分を見せる事で、その人も自分達と同じ人間だと見せるのも、人と打ち解けるコミュニケーションの一つです。基本的に他人ってそこまで深く考えていませんから、自分のしている事が人を傷つけているとは、気づかないものです。

 

気づいたなら、試していけばいい。これから変えていけばいい。「人のうわさも75日」です。

 

「受け取る側」から「与える側」に回る事

受け取るのではなく、与える側に回ってみるのです。いじめを受けていた頃の自分は、いじめを受け取る側でした。失敗や人に嫌われることを恐れて、断る選択をしなかったから、結果、いつまでも流される側にいたのです。

 

もちろんいじめを与える側に回ったら、ただの加害者です。自分の憎むものに、自分自身がなってしまっては繰り返しで学習していません。だから、違うものを人に与える側として提供するのです。そうすることで異なる視点を見つけ、現状を変えるきっかけになってほしいと、当時は考えていたからです。

 

私が試しに提供することにしたのは、ブログによる自分の体験の提供です。ブログをまずは始める事にしました。

 

流される側にいる人間は、いずれ責任転嫁をするようになります。親、仕事、友人、世の中。なぜなら自分には耐えられないからです。

 

たとえるなら雨が降っても傘を差さず、雨をしのぐこともせず、ただ雨が降る事自体に文句を言っているだけだから。自分で考え、動いて少しでも状況を変えようとすらしないから。

 

変わるにはどうすればいいのか。それは、提供する側に回って、提供する視点を知る事です。もちろん、雨を提供する事なんてできませんが。

 

たとえば私はもう一つの個人ブログを含め、ブログを長く続けています。その中には私の人生経験から得た教訓や商品の感想などを記事として情報を提供しています。

 

このブログを含め、1日の視聴数は10記事いけばいい方です。それでも、ただ受け取るだけのままよりも、違う視点を見つける事が出来ます。

 

 

提供する側に回ると選択肢が増える

新築祝いにお餅や小銭を大工さんが高いところから投げ、集まった人たちが拾って持ち帰る習慣がありますが、皆さんは経験したことがありますか?最近は見かけませんが、昭和から平成世代なら体験したことがあるかもしれません。

 

私たち受け取る側は、「投げられたものをその場所で拾う」という選択肢しか取れませんが、提供する側の大工さんは「どの方向へ投げるか、どの距離へ投げるか、投げない」などの様々な選択肢を持っているのです。

 

餅や小銭を提供する側とそれを受け取るだけの側。このように提供する側に回ると、選択肢は広がるのです。

 

 

自分の力で何かを始めてみる

現在はツイッターがあります。皆様も、自分のアカウントを取得して、テーマを決めて何かを「提供する側」に回ってみるのはいかがでしょうか?

 

面白いツイートをしたり、飲食店のレビューをしてみたりと、自分から何かを提供する側に回る意識をするのです。

 

最初は抵抗があるかもしれません。続かず終わってしまうかもしれません。誰も見ない事でモチベーションが保てないかもしれません。しかし、どれだけ期間が空いても、更新を時々続けていれば、たまにはコメントを残してくれる方もいるし、定期的に見に来る方も増えるのです。

 

継続は力なり

私のもうひとつのブログ、「常在日常」は、ライブドアブログで2013年に始めました。2019年にはてなブログへ移動後、現在はあまり書いていませんが、また書きたいことがあったら書く予定です。

 

今年はほったらかしとなっても、それでも今までで436記事あります。更新頻度はともかくとして、定期的に続けているという事実に変わりません。中途半端なブログを残して続けている事。

 

失敗を恐れない考え方の成果です。失敗をしたくない人というものは、完璧主義者が多いのです。

 

ちょっとした不規則や定期的な事柄から外れると、強迫観念によって、存在自体を消したくなります。そしてまた新しく「今度こそうまくいく」と考えながら作り直すのです。やがて、作ること自体をあきらめます。そうして、「自分は何をやってもダメな人間だ」と勝手に自分を貶し始めるのです(実体験)。

 

私は完璧を求める事を止めました。何も終わらないから何も新しい事も始まらない。いつまでも同じ場所で止まっている気がしたからです。成功しようと失敗しようと人生は続く。ならばとりあえず何かをしてみようと、ブログを残したのです。

 

当初、「毎日、3日に1回、そして週に1回ブログ記事を書く」と、どんどん決めたことを守れず、落ち込んだり悩んだりしましたが、それでもブログを残しているし、たまに書いています。

 

そして「常在日常」は、来年で10年目を迎えます。自分の中ではダメダメなブログ運用も、10年続いているし、ほぼ書かなくなった現在も毎日10件前後のアクセスがあります。

 

このブログ「理不尽に抗うブログ」も、作成してから1年と7か月。200記事を超えました。最初は1か月くらいで「もうダメだ。書けない。書くことない。どうしよう。」と思っていたのに、続きました。驚きです。

 

読者の皆様、いつもありがとうございます。

 

そしてこの記事を読んだ方で、もしも心の琴線に触れるものがあり、自身を見直すきっかけになれば幸いです。