私が以前からずっとおかしいと思っていたのが、宗教の勧誘です。

 

私は神仏に敬い、自然に畏敬を抱き、いわゆる信仰というものを個人的に持っていますが、それを人に勧めたことがありませんし、今後も勧める気もありません。個人の自由だからです。

 

だからこそ、宗教の勧誘をする人が疑問で仕方ないのです。

 

一軒家に暮らしていると、宗教の勧誘がくるのですが、「信じて信仰すれば神は見てくださる」とときどき勧誘の常とう句を聞きます。

 

ならば入信や入会なんてしなくても、個人で信仰すればいいだけの話じゃないですか?

 

たとえば神棚に高級なものを購入。これが神様への自分の気持ちの表れで、自分がそうしたいなら構わないと思います。その人の自由です。

 

しかし、宗教に入信して誰かとイベントを開いたり、霊験あらたかな品を買うのって、神様が求めているのですか?全部人間が勝手に決めて始めた事ですよね?

 

なぜそんな事をしないと神様と繋がれないなんて「脅迫」が通じると考えているのでしょうか?

 

私は神という概念に対して、自分なりの敬いの気持ちを持っているし、大事にしています。心はそれだけで救われるし、何も問題ありません。神様に怨み言も言ったりしますが、結局はずっと変わらず見守ってくれているように感じています。

 

心で神様に通じるために、なぜ人間社会の物理的なお金をかけたり、わざわざ建物を建てて誰かと集まったり、毎回聖書を読む必要があるのでしょうか?

 

自然界の動物にも植物にも宗教なんてありません。人間だけがなぜかお金をかけて神に救われようとする。通貨の概念がない頃の縄文時代や弥生時代は勾玉などを供えたりしていましたし。

 

つまり自分が敬う心さえあれば、お金じゃなくとも問題ないのでは?

 

神様に救われようとするほど自分で考える事が無くなり、思考を放棄し、結果、人生で起きたことを神様のせいにして祟りに遭うのが怖いから、「自分の祈りが足りない」と言い出して逃げているだけに感じるのは、私だけなのでしょうか?

 

私の中の神様のイメージ

少なくとも私の思う神や仏は、優しいだけでなく、時には試練を与え、乗り越えたものに祝福を授け、乗り越えられなくともずっと見放さないし、寄り添って乗り越えられる目標を一緒に探してくれているように感じています。

 

自分の人生は自分のものです。一時期神様の力は必要ないし、これからは自分の力だけで生きていくと神社に決別を言いに行ったけど、今は結局「じゃあ俺は好きに生きるからフォローお願いします。」みたいな感じになりました。

 

めちゃくちゃ飽き性の私ですら、神仏に見捨てられていないと感じています。バイトや派遣、正社員。履歴書に書ききれないほど変えてきましたが、それでも何とか生きていますし、不幸だとは感じていません。履歴書にどう書こうかと、めんどくさいと感じますが。

 

だからこそ私は7年間で自力で立ち直れたし、無職になろうと不幸な目には遭っていないし、働いていようといまいと、いつも変わらずです。なにかの条件から外れただけで神様から見捨てられたり、不幸になると感じたことはありません。

 

自分が神様に見捨てられる条件を頭の中で勝手に作って、起きた不幸を「そのせいで神様に見捨てられた!」と考え、神様のせいにしたのって、あなた自身じゃないのですか?

 

仮に神様が愛想をつかして私から離れても、私の人生は続くから自分の足で歩いていくだけです。良いも悪いも全て受け入れ、そこにある。私の信仰する神はこの世界もしくは宇宙そのものと言って過言ではありません。

 

ちなみにここでいう神仏という言葉も、誰かに伝える際に必要だから当てはめただけで、私の中では神とは光の塊、太陽みたいなものというイメージです。自然神、人神など細かく分けてもいません。

 

言語で私の頭の中をすべて説明できないから一緒くたに神や仏という単語で説明しています。(私の場合は駒澤大学に通っていた頃に仏教のほか、自然信仰などの民俗学の授業を受けていた影響もありますが。駒大は仏教の授業は必ず取らないといけないのです。お坊さんの格好をした学生がキャンバスを歩いているのを見かけるのもよくある日常です。)

 

全ては自分の思い一つ

最後に言いますが、私は霊感なんてありませんから、霊が見えたり聞こえたり、守護霊と会話をしたりなんてできません。だから神仏と繋がっているかすら、自分の感覚ではわかっていません。つまり、自分が「勝手に神仏とつながっている」と思っているだけです。

 

実は神仏と全くつながっていないかもしれません。仮に本当につながっていなくとも、それはそれで面白い笑い話の一つにもなるし、どう転んでも面白いなぁと思っています。

 

神様や仏様がいると思っていた方が、世の中って自由で遊び心満載で、楽しいと思いませんか?

 

そしてそれが私なりの神仏との対話なのです。宗教に入ってこんな「楽しい遊び」を人に強制されるなんてつまらない不自由、お断りします。

 

神仏と繋がっていると思えば繋がるし、繋がっていないと思うなら繋がっていない。全ては自分の思い一つ。私はそう感じています。