本日昼間の話です。突然眠くなって昼寝をしたのですが、その時に夢を見ました。

 

夢の内容

その夢では、地方のどこかのローカルな映画を見る場所みたいに、人々が集まってきて、その中には私も含め、昔の同級生もいます。

 

映画館というより公民館みたいな場所で、各々座って、スクリーンの上映が始まります。私も映画を見ているのですが、その時に「あれ?この映画って前も見たような・・・」と、既視感を覚え、周りの同級生に聴こうと周りを見たら、誰もいないのです。

 

しかし、今年は一人、隣の同級生がいました。寝ていましたが。起こそうとしても起きません。

 

そして、「以前も同じ事があった」と思い出したのです。そして、それは毎年1回、同じ時期に発生します。私は去年も同じ夢を見たのを思い出しました。

 

そして気づいたら映画は終わり、各々が帰っていくのです。

 

私には誰がなぜ上映会をやっているのかわかりませんが、私の直感で感じたのは、「これは誰か、もしくは私の人生の評論会なのではないか?」と、ふと頭に浮かんだのです。

 

誰かの、もしくは私の人生の現在の様子を確かめるために映画が開催された。そんな感じがしたのです。公民館などが開催する小さなイベントのような場所。この映画を見るのに入場料など、金銭のことは一度も出ない夢です。誰でも入場出来て、自由に座っていい場所でした。セットは質素でしたが。

 

私が夢に気づいて、誰もいない事に困惑していると、いつの間にか映画は終わり、他の人が突然ぞろぞろとその場所から帰るのです。本当はいたのに、私だけが認識できなかったかのように、突然再び人がいるのです。そして私も帰る所で「あれ?どこへ帰るんだろう?」と思ったところで目を覚ましました。

 

現在起きてすぐにこの文章を書いているのですが、書いている最中にどんどん詳細を忘れていっているので、ここまでです。去年も同じことがあった。私は強い既視感を覚えています。

 

不思議な夢を調べてみる事に

ちょっと気になったので、自分で調べてみたところ、もう一つの私のブログ、「常在日常2」で、去年見た夢の記事を見つけました。この夢では女性の教師が私に何かおまじないをして、私は胸の辺りが熱くなって起きるのですが、なぜチャクラで調べたのかというと、昔読んだ漫画の影響でチャクラというものの存在は知っていました。

 

「胸 チャクラ」で検索してみました。するとチャクラの解説サイトがいろいろ出てきまして。内容によると「自己受容」「他者への許し」などの愛を司るチャクラのようです。暑くなった理由はおそらく解放、もしくは拡張されたのではないかと考えています。

 

そして、今、このブログを振り返ると「自己受容」と「他者への許し」の記事を私は書いているのです。結構たくさん。一部を紹介します。

 

 

今日の昼間に見た夢の内容から判断すると、私の第4チャクラが開かれて「自己受容」と「他者への許し」を意識するようになって、現在の自分を「何者か」が評価するために毎年上映会が開催されているのではないか。と推測しました。私が夢の内容を覚えている事も少ないので、推測ですが。

 

まるで「何かの存在」が私の人生における人間性を評価している感じです。評価といっても息苦しいものではなく、本当に遊びに来たような緩い感じでした。ノルマもなく、遊びみたいな。和気あいあいでした。

 

私なりの神秘の世界の概念

以前から私は、「霊感がないから幽霊を見たり聞いたりできない」と公言しています。そして物理的に起きた物事から、「これは目に見えない存在からの助言なのでは?」と推測して行動していると書きましたが、今回はこのような形で一連の出来事をつなげて考えました。この思考する流れ自体が、「何者かの存在」からのメッセージなのかもしれません。そう、まるで「何かに気づかせる」ことが目的かのような・・・

 

私は、この世界には私を成長させ、育成するシステムがあると仮説しています。「地球は魂の育成所」という人もいますが、私も自身の体験や人生を振り返って「そんな気がする」と思う事が多いです。

 

私は上記の自身の体験から、人によって解釈や見える範囲が異なるだけで、本質は全て同じ流れの中にあるのかも、と仮定します。私なりの神や仏、神秘の世界への理解や解釈の仕方です。これは人によって様々なのではないかと考えています。

 

いずれにせよ現実を見ている人にはオカルトでスピリチュアル的な話なので、胡散臭いと思う方も多いでしょうね。しかし、私自身は以前よりはこういったオカルトや神秘とも呼べる世界は存在し、まだ解明されていない概念はあると思っています。

 

少なくとも物理的な証拠や根拠などなくても問題ないのです。証拠も根拠も、現代の物理的な、人間社会だけにしか通用しない理論ですから。

 

私の体験からくる実感ですが、神頼みで「ツボを買えば救われる」などの、他者依存、他者任せの人生を神仏などの「目に見えない存在」が望むとは考えられません。それは大部分がただの霊感商法で詐欺だと思います。

 

ただ、霊能力者自身がその人の人生相談をすることまでは詐欺とは思いません(人によります。金銭目当てで騙そうとするなら詐欺ですが)。いずれにせよ、霊感のない私には判断はできないので、ふとした出来事から調べて、自分で気づくだけの話です。

 

オカルトや神秘の世界は金銭など必要ないというのが私の夢などを通して自身の体験から得た結論です。実際、不思議な夢の中でお金の話が出てきたことなど一度もありません。

 

だから私はスピリチュアルの物理的な商品(ツボや水など)は一切信じておりません。もしかしたら本当に霊力の宿るものも存在するのかもしれません。判断できないので否定はできません。その人が救われたと思うなら救われるし、それが正解なのかもしれません。救いと依存はハッキリと異なります。

 

その土地の神の存在まで侮辱する気はありません(私には確かめようがないので、本当に存在するなら失礼にあたりますから)。だから参拝には行きます。単純に静かで自然が多いから神社や寺って落ち着くし、好きなので。

 

深く考えなかったことを考える事により、そして宗教のできた経緯や歴史を調べると、私がいかに無知で狭い世界しか知らないのか、思い知らされます。

 

ここ数年で今まで常識だった考え方が、かなり変わってきました。今までの人生観が一変する出来事が良い事も悪い事も含めてたくさんで、興味深いです。40歳目前のおっさんですが、人生で学ぶことはまだまだ多いですね。

 

言葉で説明するのが難しいのでフワッフワな説明ですが、私の一連の仮説や体験が、私のように霊感がない方の、神秘への向き合い方の参考になれば幸いです。