私がいろいろあった末、悟り?を開いたような心境になった時、どうなったかというと、日常は何も変わりません。

 

突然人生観が一変することもないし、特殊な能力に覚醒する事もありません。ただ、なんかスッキリした気分になりました。

 

そして翌日からはまたいつもの日常です。ただし、その日常をいつもの日常にしてしまうのか、行動を変えて違う日常へ変わっていくのか、それは自分次第です。

 

悟りのような心境に達したからと言って、人生は終わりませんし、変わりません。私が実感したのは、色々な視点で考えられるようになります。自分の視点から見る世の中の「見え方」が変わってきます。

 

なんて言えばいいのか。なんかシンプルなんですよ。

深く考えないとも言えるけど、なんかどんな答えが出ても「いいんじゃない?それで。」みたいな感じで受け入れるし、受け入れなくても「それも答え」として客観的に受け入れている自分もいるのです。あるがまま出したその時の選択や感情、正でも負でも全てが「そのまま答え」みたいな感じです。

 

受け入れても答えだし、受け入れなくても答え。過程も結果も全てという感じです。諸行無常みたいな感じでしょうか?

 

仏像の中にはいろいろな姿や姿勢、剣や金剛杵などを持った仏像がある。しかし、それが生前の本人が答えに達した姿なのか、仏像を作った第三者から見えた答えの姿なのか、ハッキリと分かりませんが、それがどちらであろうと「答え」なのではないでしょうか?

 

つまり正解はないとも言えるし、あるとも言える。全てはその人の思い一つで世界は作られる。そしてそんな世界が出会い、わかれを体験するのがこの世であると。

 

なのでこれは仏教上の悟りを開くこととは違うのかもしれません。私は真面目に仏教を学んでいないので、wikipediaで調べて推測で悟りと言っているだけです。

もしかしたら本格的な宗派の方々は怒るかもしれません。一個人の感想なので侮辱に感じたら申し訳ございません。そしてこれもまた「答え」であり、読んだ方の反応もまた「答え」と言えます。(言葉で説明するの難しい)

 

少なくとも私は人生や、生きることが面白いと感じるようになりました。そしていろいろ経験をしてみたいと思うようになりました。

 

私の人生は生きている限り続くし、考え方も見えるものもまた変わっていくのかもしれません。

 

人生の最期にどんな心境に達するのか。それは客観的に見たらどんな状態なのか、私にはわかりませんが、「今この瞬間の自分」を常に生きていくだけです。