私の論ですが、人間は老若男女問わず、もっと遊ぶべきだと考えています。

 

なぜなら、遊ぶという事は、学ぶという事だからです。

 

私たちはこの世に生まれてから、歩けるようになるまで学習をしていましたか?

 

いいえ、うまく歩けるようになるまで意識はなくとも、生物の本能として試行錯誤していたはずです。

 

誰かの動きを見ていて、真似ようとして、やがて形になっていき、歩けるようになった。今では意識しなくとも歩けます。

 

ずっと疑問だったのが、遊びと勉強と仕事を分ける考え方です。物事は突き詰めてしまえば、全て区別などない「遊び」と言えるからです。もちろん、「遊び」ではなく、「仕事」といってもいいし、「勉強」といってもいい。それら「」の内容ははただの言葉でしかありません。

 

報酬が出るのは仕事、試験の成績が出るものが勉強、じゃぁ、遊びは?

 

遊びは自分や周りが楽しくなります。それは喜びとも言えます。そう考えると、仕事なら会社の経営者が喜びます。勉強なら親が喜びます。遊びも誰かが喜びます。

 

言うなれば全ては、人間が勝手にかけたフィルターの中で他者や物事を比較し、優劣や差異を押し付けあっているのが今の人間の生き方です。

 

仕事の内容、勉強の内容、遊びの内容。内容には区別がありませんし、上も下もありません。

 

全て区別し、勝手に優劣を決めているのは人間たちです。人間たちの社会の都合です。物事を区分けしているのは自分自身です。

 

もちろん、誰かに迷惑がかかるから仕事では責任を持った方がいい。勉強も成績が低いと学校に通わせてくれる親へ迷惑をかけます。進路相談で担任の先生も困ります。勉強は自分の責任です。そして遊びにも、法律に反したり、他者を危険に巻き込んだりするなら責任が伴います。

 

どこに遊びだけは違う、遊びだけは別という区別などあるのでしょうか?これこそただの差別と変わりないのではないでしょうか?勉強や仕事はヨシとして、遊びだけは別物という扱い。これが差別でなくて何なのか。

 

私から見た今の人たちは、常にだれかを意識して、常に何かを意識して、盲目になっている気がします。盲目というより、あえて見ない、考えないといったような、そんな印象を受けます。誰かや何かのせいにするのは楽ですからね。

 

私も遊びと仕事は区別していますし、差別しています。私も差別をしている人間だという事です。矛盾していようと正しかろうと間違えていようと、自分が何を選んで決めていくのか。自分なりの答えを決めて生きる事こそ人間の生き方であり、それが「その人らしさ」を作っていくのではないかと思います。