私は現在も近所数件から監視を受けていますが、全て受け流しています。中には私が外にいる時に、ご丁寧に近所のいじめ好きな主婦の息子や旦那さんは「キメェwww」と、わざわざ自分の窓から他人の家である私の家を覗いて、一言残していきます。

 

話を戻しまして、陰から貶され続けている私が身につけた、暴言に対する対処法。

 

それは、面と向かって言われない限りは自分の事ではないと考える。です。そして面と向かって言われても、嫌な言葉まで受け入れる必要はありません。

 

当たり前のことのようですが、なかなか難しいんですよね。加害者たちって卑劣だから、うまく言い逃れできるような、被害者に聞こえるように暴言を吐くから。そして振り返るとこちらを見ていないか、すでに遠くへ走り去ったり。逆に考えてみればこう言えます。

 

面と向かって言われない限りは自分の事ではないのです。頭のおかしな奴らや集団が独り言をつぶやいていると思えばいいのです。

 

実際、キモいと言っていても近くの人の話ではなく、他の友人の話だったりしますからね。(私が言われるのは私の自宅の庭にいる時に近所の子供で、相手が一人だったりするので明らかに私に向けた言葉だと分かりますが)

 

陰口を言う人間というのは、結局は自分が目を逸らしている不満と向き合えない弱い人間が、自分がみじめではないかのように錯覚するための、いわば強がりが多いのです。中には他人を傷つける事に楽しさを覚えるサイコパスもいますが。基本的には「誰かや何かに自分が劣っている」と感じているから暴言を吐いて少しでも自分のところまで下げてやろうという悪意です。

 

自分が満たされている人は、わざわざ相手に聞こえるように傷つける発言なんかしません。

 

自分たちが心になにか不満を持っていて向き合う事が嫌だから、他人に向かって八つ当たりをしているのです。自分自身と向き合えないから他人を貶して自分の機嫌を取る。そんな弱い卑劣な人間の言葉なんて真に受ける必要はありません。悪口を言われた時点であなたの精神の強さがすでに上だと証明されているのです。

 

自分で何かを変える度胸も覚悟もなく、陰から仲間を作って相手を貶すくらいしかできないから、実行するのです。本気で現状を変えようとする実行力のある人間は、誰にも何も言わずに、自分の敵へ己の手で排除するために襲い掛かります。私自身が怒りに身を任せ、そして直前で止めた人間だからよく分かります。(詳細はプロフィールやカテゴリの近所トラブル参照)

 

自分を変えようとするか、陰から相手を貶して他人に変わるまで駄々をこねるのか。この時点で精神年齢は大人と子供くらい差がついています。自分より人間性が格下だと決まった相手の言葉を真に受ける必要はありません。

 

 

言霊と因果応報

だから自分の発する言葉というものは、日頃から気をつけた方がいいですよ。自分の発した言葉を一番最初に聞くのは、自分自身の脳なのですから。良くも悪くも自分の言葉が積み重なって未来の自分を作っていくのです。

 

私へ発した陰口が7年重なった結果、私の近所のいじめ主犯と取り巻きは、私の相続から7年後、誰からも信頼されない人間となりました。彼女たち自身の発した言葉が、自分たち近所の陰口仲間以外の人間からの信頼を失ったのです。

 

彼女たちの今の状態を作ったのは、7年前から積み重ねてきた彼女たちが発した言葉と行動の結果です。心という自分の畑にまいた「他人への嫌がらせ」という品種の種が花をつけ、実がなったら食べて自身への糧となる。彼女たちはその腐った実を食べ続け、自身の心の栄養にし続けました。

 

食べたものが自身の肉体を育て、維持します。食べ物から栄養を摂取し、健康になったり病気を予防したりできます。健康な肉体を作るのは、健康な食事です。

心も同じです。心というものは自分で何を植えるか、何を収穫して食べるのか、全て自分で決める必要があります。

 

「他人への嫌がらせ」という悪意の種を自身の畑である心に植え続け、できた実を食べ続けること7年。近所のいじめ主犯たちは人間とは思えない悪意のある嫌がらせを平気でできる人間になりました。

 

「私の家があり、私が住んでいる」それだけで私の家の中から生活音がしたら毒づき、自分の家に帰り、「あいつのせいで私たちは自由に外に出られない!」など私の存在のせいにし、私がクロスバイクで外出すると、警察に通報しようとするという悪意の塊です。まだ良心の残っている人がいるのか、止めているようですが。先日もクロスバイクで4時間ほど出かけて帰ってきたら、(歯医者行ってサイクリングして返ってきただけです)、その直後に「通報しよう!」と話を外で始めていました。

 

私が平日に出かけると近所から警察に通報されるようです。こんなのメチャクチャですよ!彼女たちは「私が生きている事が犯罪だ!」と言っているのと同じです。仮に私が出ていったとしてどうなるのですか?何も変わりません。彼女たちはまた自分たちの気に入らない人間が出てきたら、また同じように陰口や町から追い出そうと提案し、難癖をつけて被害者面をして警察に通報すると?こんなことを彼女たちが死ぬまで繰り返す気なのでしょうか?

 

自分の生まれ故郷を踏みにじられ、怒りを抑えて自分の人生を生きていますが、「こんな人たちが野放しで一切の罰も受ける事もなく、自身のやったことを反省もせず、これからも近所以外からは良い人と思われて人生を全うするのだな。」と考えると、自分のやっている事に意味がないのかもしれないと感じる事もあります。「自分は生まれるべきではなかったのではないだろうか」そう考える事もあります。

 

しかし、両親や祖父母、親戚、病院の先生に看護師が生まれた時に仮死状態の私を蘇生したからこそ生きているのです。私が生きる事を望む人たちは、確かにこの世界にいたのです。それをこの先も忘れなければそれでいいと私は思います。それが陰口に負けない確かな力、すなわち「愛」です。

 

私もずっと彼女達への怒りや怨みを抱えていたら、そうやっていつまでも悪意の種を対抗して育て続け、自身の心をドス黒くしていたことでしょう。

 

現実にこんな非道な人間がいるとは思えないくらいですが、実際にいるからこのブログが生まれたのです。そして全国紙になるくらい酷い事件が起きたりするのです。

 

言葉というものは、「誰から言われたのか」で聞き入れるか、聞き入れないかが変わってきます。気に入らない上司が言う言葉は聞き入れなくとも、それを他の友人が似たようなことを言えば、自身の考えを少し改める人だっているのです。

 

「この世は人間を育てる場所だ」と気づいた話

世の中はそうやって、ものごとをあなたが理解するまで何度も、別の誰かや何かが代わる代わる似たような状況で自分に伝えようとしてくれています。「この世界は自身を学ばせようとしている」と気づく事で、新たな世の中の見方ができるようになります。

 

では、誰がそのように私たちを成長させる学習方法を取り入れたのか?それは霊感のない私には感知できません。いわゆる「神や仏」など呼ばれる存在なのでしょう。

 

私自身、相続直後の7年前にはこのような結論に達する事は想像もできませんでした。

 

私自身の人生を振り返り続け、到達したことです。

私には真理とはなんなのか感じる事は出来ないのかもしれませんが、状況や情報から推測ならできます。(霊感がないのでその情報の正誤は分からないので、「霊感のある人」の出している書籍などからの推測ですが)そして必要な「学び」ならば、形を変え、私が気づきやすいように、日々の出来事の中から私の前に現れるのでしょう。

私が「いつ気づくのか、どんな学びをするのか」を気長に待ちながら。

 

私はこのような考えから「輪廻転生」は存在するのかもしれないと結論に達しました。もちろん、これは私の妄想です。ですが、妄想ではないかもしれません。確かめる術はないのですから。

 

「魂を学習させるために人間に生まれてくる」という話は、霊感のない私には荒唐無稽の話ですが、考えたところでどうにもならないので、ただ私は人生を味わうことにします。

 

話は逸れましたが、私自身も日頃から発する言葉には気をつけていますが、許容量を超えるとついつい誰かのせいにしたくなります。いろいろな事が重なっていると受け流すことができず、家の中で一人でブチギレて独り言を言ってしまうので、まだまだ悟り状態を完全に維持することは難しい感じです。

 

こうやって受け流しを積み重ね、自身の心の器を地道に広げていくしかありません。まだ私も道の半ばです。