原因はいじめ加害者の思考にあります。

 

いじめ被害者がいじめを受けた際のパターン

  1. 攻撃を受ける。
  2. 怒りが溜まる。
  3. やり返す。

 

いじめ加害者がやり返された時のパターン

  1. いじめをする。 ←いじめ加害者はここがすっぽり抜け落ちる
  2. 攻撃を受ける。
  3. 怒りが溜まる。
  4. やり返す。

 

報復の連鎖の悪夢

このように、いじめ加害者といじめ被害者は思考が同様になってしまうのです。いじめ加害者は都合の悪い事は頭の中に含まれないのです。

 

いじめ被害者といじめ加害者が同時に出来上がってしまうので、延々と報復のループになります。

 

例外もありますが、いじめ被害者も一度やり返して何もされなくなったらもう止めましょう。それ以上は報復の連鎖になります。

 

目には目を。歯には歯を。やり返すなら等倍で。

 

やり返してもいい時もある

これは未成年同士の時だけ限定の話ですが、たとえば一方的に暴力を直接受けている場合は、やり返していいです。でないと自分が死ぬかもしれません。身の危険を感じたり、自分の中で我慢できない「何か」があるのなら勇気を出して殴り掛かるのもアリです。

 

ただし、その時は一発だけ殴るなんて生半可な事はしないでください。やると決めたら相手がやめてくれというまでやる方がいいです。中途半端な攻撃は相手を逆上させるだけです。

 

相手は反撃しないと思っているからつけ上がるのです。ならば相手に自分に対する恐怖を植え付ければいい。より強い暴力でやり返すのもアリです。ただし、それは相手が先に手を出しており、相手も同じ未成年の時に限ります。成人を過ぎて手を出すのは暴行罪で逮捕されます。

 

ただし、もういじめをされなくなったら攻撃してはいけません。それは新たな加害者に自分がなるからです。

 

私の近所のいじめ主犯のように例外もいますので、その場合は証拠を集めて警察に提出するか、弁護士に相談するのが一番でしょう。

 

精神が幼稚すぎる人間には、「他人の気持ちを思いやる」という能力が欠けているので、思いやりや情を使った説得は通用しないのです。あるのは自己保身のみ。

 

実際、永遠に相手が反省する事はないと分かるとイライラも強くなりますが、「いつまで続くのだろう」という徒労感も強くなり、先に心の余裕が尽きます。そうなるともう本当に人生はメチャクチャになります。

 

ある時点でブツッと相手との縁を断ち切り、乗り越える術を身につければ延々と続く報復の連鎖に巻き込まれないで済みます。

 

報復の連鎖の果て

報復の連鎖の先には、何もありません。あるのは膨大な自分の人生の時間を無駄にした事実だけです。

 

プライドを取り戻せる?数年かけて「勝った」というプライドを取り戻すのも、本人が納得するならそれでいいでしょう。しかし、勝った先にあるのはいじめ加害者と同類とみられる世間の目だけですよ。

 

私の経験から言える事は、いじめ加害者に奪われたプライドなんて捨てていいのです。自分で新しく他のプライドを作る方がよほど人生は充実します。

 

いじめ主犯に心を折られ、6年無駄にして、何度も苦情を言ってプライドを取り戻した私の感想です。

 

プライドは自分でいくらでも作れる

今だからこそ言えます。プライドは新しく作れると。

 

  • いじめ加害者に心を折られたプライドを取り戻した私。
  • バイトをしながらITパスポート試験に約1か月で1発合格した。
  • 御岳山をクロスバイクで登った。
  • 無理だと思っていたゲームを試行錯誤の末にクリアした。
  • ジョギングを続けて最初は400mくらいで息が切れていたのだが、5㎞の道のりを走れるようになった。

 

ITパスポート試験で合格した自負は、今年私が新たに身につけたプライド。すなわち私の自信とも言えます。プライドは自分のこれまでの人生の中で作られるものです。という事は、生きている限り、自分で新しくいくらでも作れるという事でもあるのです。

 

私はいじめ加害者にやり返す以外の、自分が自身に誇れるものをいくつも作れました。

 

いじめ加害者に苦情を何度も言いに行っていた当時の私には想像もできませんでした。今だからこそ言えるのですが、くだらない人間の事を考え続ける事ほど無駄なものはありません。

 

実際、私がいじめ加害者に怒鳴って怒ったところで何も変わりませんでした。それどころかいじめ加害者は私を町から追い出そうと周りに提案し、警察に通報するまで悪化したのが現在です。いじめ加害者は何をやっても反省しないし、変わりませんでした。

私が取り戻したプライドなどは、その程度の価値の相手に奪われたと勘違いしていたちっぽけなものだと今は思います。

 

自分の人生の時間を無駄に使い続ける人間の相手をしないで、自分自身を高める努力をしましょう。それがなかなか難しいのは知っていますが、乗り越えた先は、「いじめ加害者の嫌がらせを同類にならずに乗り越えた。」という、より強く、タフになったプライドがあなたの中に宿ります。

 

生きる事に正解なんてない

しかし、正解なんて誰にも分らないのです。歴史上、正しい人間などどこにもいないのです。なぜなら「正しい」という概念自体が人間の決めた事だからです。

 

だからこそ皆が声を挙げ、多くの意見を求め、話し合い、皆がより「正しいと思う答え」を導く必要があるのです。

それこそがずっと続いてきた人間という群れの生き方です。

 

私は一人で苦情を言いました。あの時はそれが自身の正解だと思ったからです。もしもあの時、私に信用できる味方がいるのなら、違う道もあったかもしれません。

 

今は私のおこなったことを後悔もしていますが、完全に間違っていたとは思いません。あの時声を挙げなければ、今の私はなかったのかもしれないから。

 

いじめ主犯に怒鳴ったことで、私も「チンピラ相手に対処できる」という自信を得たとも言えますが、資格試験を受けると決めて、試験会場へ行って試験を受けて、最後まであきらめない事の方がよほど建設的で、自身のために一歩踏み出した実績となるのではないかと今は考えました。

 

実際、社会復帰したとして相手に対して怒鳴るなどの非常識な行為は、職場ではめったに見かけない事の方が多いですからね。

 

結局、正解は出ないので、私は両方実行しました。いじめ主犯に怒鳴るという選択、その後も続く近所の陰口を無視して、今度はITパスポートの資格試験を受けるという選択。

 

それでも明確な正解は出ませんでした。だから、「正解が出ない事が正解なのだ」という結論になりました。

 

人生は選択の連続です。つまり、選択をする事自体が正解なのでしょう。意識して行動を選択する。

 

選択しないのもまたその時の正解であり、またいずれ、選択を迫られます。選択をしない日々もまた、自分を成長させるための充電期間なのかもしれません。これは私のほぼ引きこもり状態の時に実感しました。

 

その人の正解を待ってくれる人はなかなかいないし、選択が常に最良とは限りません。しかし、出来れば最良に近い選択をしたいのは誰もが同じでしょう。だからこそ選択には自分の責任を持つ必要があります。良い事も悪い事も全ては自分の選択し続けた先が招いた結果です。

 

選択をできること自体が、自分の人生に与えられた祝福だと言えます。

 

いくら過去を考えても何も変わりません。だから私はこの記事を終えて、次の選択へ向かいます。