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今回の話は、いじめや嫌がらせを受けている被害者の方にはとても残酷な話です。心身に不調を来すかもしれないため、閲覧注意でお願いいたします。

また、私の周りの環境から得た、私の主観の教訓ですので、全ての人に当てはまるわけではありません。

しかし、現実を知る事で人間への無意識で過度な期待を排除できるので、「裏切られた」という思いをする事も減るでしょう。
たとえ被害を受けたのが事実でも、被害者意識が強いと不幸の連鎖になります。


私たちは子供の頃に教えられた「人間は綺麗な生き物である」「大人は万能で間違えない」などという都合の良い部分しか見せないフィルターをかけたままで大人になった方も多いと思います。

だからこそ現実を知って、フラットな目線を持つことを意識しないと必要以上に大きなダメージが入って、立ち直るのに苦労したり、認知が歪んだりしてしまいます。

私自身もフィルターがかかっていたからこそ、苦しみました。
現在の私はちょっと被害者意識が強い傾向が抜け切れていないと感じているので、被害者意識に囚われないように再び新たな目標を作り、勉強を始めました。

勧善懲悪は存在しない

現実には勧善懲悪なんて存在しません。あるのは残酷な「事なかれ主義」です。

特に日本は「臭い物に蓋をする」事を、問題解決だと考える大人が多すぎるのか、悪事を行う人が得をする事が多い社会になってしまいました。

つまり、被害者がいくら被害を主張しても、周囲の人間は「面倒なトラブルが終わればそれでいい」ので、加害者や被害者など、どうでもいいのです。
当事者以外の人には自分たちの生活さえ確保できれば、どちらに非があろうとなかろうと、どうでもいいのです。

そのため、加害者を擁護して被害者を町から追い出すことだって平気で考えるし、被害者の存在が迷惑だと考える人も多いのです。

突然一方的に攻撃された被害者の心境はとても納得できないものがあるでしょう。私自身、今でも一切納得していません。

それでも、私一人が納得しないだけであり、加害者たちも加担者たちも、誰一人として自分たちのやったことが悪い事だと考えていないため、多数決と客観的な視点から
「私が生きていて、生まれ故郷の街に戻り、家族の家と遺産を相続して暮らしている事が、近所にとっては嫌な事なのだ。」という客観的な現実を受け入れただけです。

私の近所がこの7年間で出し続けている答えは単純で、相続して暮らしている「私」の存在自体が悪い事だというのが結論です。

ちなみに、私以外の近所の人の相続(隣人や他の旦那さんを亡くしたおばあさん達)には誰も何も文句は言わない模様。つまり、私の近所は私だけが許せないのです。

人から私の存在を否定されようと、私は私の生きたいように生きるだけですが。

加害者は反省しないし、自分が被害者であるかのような態度を取る

これも多くの人が経験しているかと思いますが、世の中のいじめの加害者ほど、自分が被害者かのような振る舞いをします。

理由は簡単で、いじめの加害者というものは自分の中のコンプレックスなどを他者に投影し、他者をけなす事でその心の穴を埋めた気になっているからです。
だから加害者の言い分では、「被害者の存在自体が自分を加害している」という事になります。


要はいじめとは、幼稚園児が行うヒーローごっこを、赤の他人を使って行っているのです。


当然、ターゲットにされた被害者には一切関係のない事です。極めて自分勝手で悪質な行為です。


言ってしまえば、加害者というのは自分自身の心すら自分で制御できない幼稚園児以下の子供なのです。


幼稚園児は泣いても自分で泣き止もうと努力をしますし、周りの大人も説得しますが、大人がその幼児になったら年齢や人生経験のプライドが邪魔をして、人の意見を聞きません。
つまり、手の付けられないモンスターとなります。


これは大人であろうと関係ありません。学問の勉強では身につかないものです。

自分自身の心と向き合わなければ、いくら大人になろうと、どんなに高い地位に就こうと精神年齢は成長しません。

肉体は大人になって何十年経っても、精神は赤子のまま育たない人は、いつまでも小学生くらいの子供と変わらない事を繰り返し続けます。
病名としては「自己愛性人格障害」もしくは「自己愛性パーソナリティ障害」などと呼ばれています。


私の近所のおばあさんのように、私に対する陰口や悪口、風評被害などをやめてくれと頼んでも、逆恨みして町から追い出すだの警察に通報するだの嫌がらせを繰り返し、周りに嘘をついたり言い訳をしていつも逃げたりしている人は、おそらく自己愛性人格障害の可能性が高いでしょう。

精神年齢が成長しないまま大人になって老人になって、前頭葉が衰え、そのくせ年長者というプライドだけは高い、駄々をこねる幼児と変わりません。
幼児と違って素直じゃないので、もはや手のつけられないモンスターと化します。

ほとんどの人が表向きは良い人のフリをしている

表向きで人のよさそうな笑顔を常に浮かべ、ニコニコして「何か困ったら言ってね。力になるから。」など言う人には注意しましょう。

耳ざわりの良い言葉を平気で使う人は信用なりません。こういう人は、自分の旗色が悪くなったら平気で見捨てるし、罪をなすりつける可能性が高いです。

私の近所はそういう主婦がいます。表向きは良い人で、良い笑顔と声で人に接し、良い言葉ばかり使っていますが、裏では私を貶す陰口にずっと参加し、中には「いじめ被害者を犯罪者として通報しよう」と平気で自分たちが貶して苦しめた被害者を犯罪者として仕立て、近所から追い出し、自分たちの悪事をもみ消そうとする人もいるくらいです。

実際私へのいじめ加担者の高齢者が提案したのを聞きました。(私の家の前でそんな会話するなよ・・・)

私の近所の自治会組長さんの奥さんも、私の前では私への嫌がらせをする近所の人たちを非難していますが、私のいないところでは「被害者の私が町を出ていけばいいのに」だの、「あの子、通報した方がいいか
ねぇ」だの、いじめの取り巻きと同じことを言っています。

話し相手によって自分の意見がコロコロ変わるから、一切信用していません。


そしてこのような人物は、風向きが変わったら有利な方の味方へ付きます。
自分以外は加害者であろうと被害者であろうと、どうでもいいのです。

まぁ世の中なんてそんなものですが。誰だって面倒な事には巻き込まれたくないでしょう?

ただし、加担していじめ主犯のいないところでも誹謗中傷を広めていたり嫌がらせをしている人は、すでに当事者ですのでそんな言い訳は通用しませんが。

無責任な人間は自分の考えを持っていないから今までの行いの責任も感じず、反省も学習もせず、「自分は振り回されている、巻き込まれている」など被害者のような態度を取り、他人のせいにして逃げます。

バレなければ安全なところから他人を攻撃してもいいと思っているからです。
私自身の経験からわかる通り、加害者の行いは、被害者にバレる日が来ます。

人間の心の醜さ、汚さというものは底がありません。

表向きは良い人のフリをする人の本性

  • 何かあったら他人のせいにする。
  • 有利な方の味方をする(倫理や道徳は期待できない)。
  • 二面性がある。(一方では助けるふりをして、もう片方では周りと一緒に相手を貶める。)
  • 自分の意見を通す時は周りに取り巻きを作る。
  • 嘘をつくのが上手い。


表向きは良い人のフリをする人もまた、「自己愛性人格障害」と言えるでしょう。

自分以外は全て道具であり、他の人間にも同じように心があり、酷い言葉を言われたら傷つくとは考えられないのです。
自分しか見えていないし、見ようとすらしないからです。

「陰口は言われて当然のもの」と認識する

どんなに良い人でも、どんなに悪い人でも、陰口や悪口というものは無くなりません。この世の人間は必ず陰口や悪口に巻き込まれます。

どんなに性格が完璧な人でも、その性格の良さを妬まれれば悪口を言われます。(例)「まるで聖人気取りだよね」「世間知らずのお嬢様って感じ」など。)

当然ですが陰口や悪口などは、言った人間が悪いのです。言った側の精神に問題があるから陰口や悪口は発生するのです。
しかし、他人がその人の内面を変える事はできません。内面を変えられるのは、自分自身だけです。

人の心は「気づき」によって変わる

その人の内面が変わるには、その人自身が気づいて変わろうとしなければ、変わる事はありません。

そのきっかけを作ってくれるヒントを持っているのがカウンセラーや精神科医などの、精神面のプロです。彼らの分析や言葉から、気づきを得て自分で変わるのです。

この「気づき」を悪用するやり方として、洗脳があります。

洗脳とは、この「気づき」を知らない人に、「気づき」を教えないまま自分たちの思想を植え付けるのです。だから相手から植え付けられた思想が自分の考えたものだと錯覚してしまうのです。

洗脳を解くには、「気づき」を与え、考えるという行為をさせる、洗脳した方法以外の生き方を実際に行動させ、相手の脳に納得させるなどがありますが、かなり大変だし、歳を取るほど思考は固くなっていくので、実際に高齢の人の洗脳が解ける日はまず来ないでしょう。

実際、今までやってきた事の否定は、自分の人生の否定につながるのでかなり難しいのです。
執念、執着に変わってしまっているともう手遅れでしょう。

自分の意見を持たない、自分の意見に責任を取れない、仲間外れにされたくないなど、理由は様々ですが、そのような人が大部分なのが現実です。

世の中は白黒ハッキリしない事の方が多い

世の中はどれほど自分に非がなかろうと、自分が悪い事にされることも多いのです。

誰かの罪を押し付けられて、誰かの責任を押し付けられて代わりに謝罪をしたりする。これは私自身も働いていて何度も経験しています。

自分がその組織に所属しているから、いわばチームの連帯責任なら、代わりに謝罪する事も納得はできます。そして相手もそれが分かっている事が多いのです。

だから形式として手打ちになる事も多い。それがビジネスの世界です。

そして、プライベートでも同じようにどれだけ自分が悪くなくとも、理不尽でも、手打ちにしなければ関係が成り立ちません。

ただ、私はプライベートに関しては何も言えません。

私自身が相手達と手打ちにできるほど大人ではありませんでした。
そして相手達の人間性も、反省や改善が期待できないので今後も私が仲を改善しようとは思いません。そのためプライベートに関しては、私が説明できることはありません。

私が近所づきあいを止めた理由は以下の記事で書いていますが、そこに長く住んでいる「自分たちが上であり、従うのが当たり前」という意識で、もしも新しい住民が既存の住民たちの機嫌を少しでも損ねたら、話し合いすらせずに既存の住民たちだけで相談し、住民たちで叩くという完全な村社会です。

自分たちに従わない住民は自分たちの道具か奴隷か、そのような「何か」と勘違いした集団です。昭和の村社会の悪習に染まった近所です。

仕事をしている場合は「チームや組織の連帯責任という意味で頭を下げるという事がある」と覚えておきましょう。

その場合、頭を下げてもあなた自身の自尊心が貶されるわけではありませんので、内心では適当に受け流して構いません。責任とあなたの自尊心は別のものだという事です。

人間は汚くて醜い生き物だが、美徳も併せ持っている

上記の内容のように、人間とは汚くて醜い心を持った生き物です。ですが、その汚くて醜い心は、この記事を書いている私も含め、全ての人が多かれ少なかれ、同様に持っているものです。

だからといって、汚い事や卑怯な事をしていいと言っているわけではありません。

卑劣な事をし続けていればいずれ自分の人生もそのまま汚くて醜い人生になるだけです。誰もがそんな人生は嫌だと考えます。

まずは人の心とは汚い部分もあると自覚する事から始めましょう。この自覚を否定すると、極端な人間になります。

「正義か悪」などの極端な考えを持ち、自分の意見のために都合の悪い事は嘘をついてまででっち上げたりするような人間になってしまいます。

結論に固執して、その辻褄を合わせるために、こじつけたり、誰かを陥れたりと、その場しのぎで嘘ばかりつく人間になります。結果は本当に汚くて醜い心にふさわしい人間へとなっていきます。

人間社会は複雑で、実に様々な思惑が嚙み合って喰い込んで、成り立っています。

人間の心は汚い。それは事実です。

ですが、お祭りで無邪気に興奮したり、体の不自由な人の手助けをしたりと、純粋さと助け合いの精神など、美しい心を持っている事もまた事実なのです。

私もこのブログでまるで聖人君子のように、「いじめられた復讐なんて考えないで、自分の幸せを考えて生きよう!」と言っています。
しかし、私自身も報復したいと何度も考えています。汚い醜い人間です。でも、それでいいと私は考えています。

人を大切に思う自分と、人の心を醜く汚いと嫌う自分。自己矛盾する感情もすべて含めて自分なのです。人生には解決しない問題があってもいいのです。

もちろん、実際に人に言ったら引かれるので言いません。自分で自分に納得していればいいのです。


「水清ければ魚棲まず」という言葉があるように、綺麗すぎる環境は魚は住めません。コイが真っ青な綺麗な水の中で泳いでいるのを見たことがありますか?おそらくないはずです。

濁った川や湖などでコイは生息できるのです。そしてそんな濁った水の中でも立派に育つのです。


私たちは汚くて醜い事ばかり強く印象に残る事が多く、まるで美しい、良かった事などないかのように感じてしまいますが、それは自分が気づかないか、汚くて醜いものを優先して思い出してしまうからです。

これこそが「悲劇のヒロイン思考」であり、被害者意識の強い人が陥りやすい現象です。

私もそうでした。特に酷い時はずっと「なんでこんな目にばかり遭うんだ!?なんで自分ばっかりこんな目に遭うんだよ!!」と引きこもって頭を抱えていました。

人が絶望する原因は落差

本当に生きていて良かった事は何一つありませんでしたか?よく思い出してみてください。

あなたが今日まで生きてこれたのは、良い事もあったから生きてこられたのです。人が絶望して死を選ぶときは、落差と将来が見えない事が原因だと私自身の経験から推測しています。

「あの頃は良かった」「ツイていない」これらの感想は、自分にとって良かった事が一切なかった人には思い浮かびません。
そもそも良い事がなかったら悪い事が当たり前になるので、このような悩みすら生まれません。日常だからです。

だからこそ思い出してほしいのです。
人間を汚くて醜いと感じるのは、そもそも綺麗で美しいものを知っているからなのだと。

ではその、「綺麗で美しいもの」は自分にとって何だったのか、思い出してほしいのです。


今は記憶にしかなくとも、確かにあった出来事だからです。あなたの記憶はあなたの頭の中にしかありません。
あなたの頭の中に「綺麗で美しいもの」の記憶があるからこそ、また「綺麗で美しいもの」に出会う事を期待して今日まで生きてきたのだと。



皆様も開き直って、この汚くて醜い「人間」という生を楽しんでみてはいかがでしょうか?

自分の心の機嫌次第で、この世界は醜くも美しくも感じるのです。

「それでも良い事だってあるさ!」と、時には大きく開き直って歩いてみる事をおススメします。
ぜひ皆さんなりの「人間」という生き物の現実を見つけてください。

私は「人間」という汚くて醜い生き物だという現実を見つけましたが、どうせ生きるなら自分にとって生きやすい、幸せな現実にしていきたいですね。
あと人生の目標である仏陀を日々の生活の中で目指して生きています。

私の裏切られた話と立ち直った話

私の近所は私が幼い頃からの知り合いが多く、相続した後はそのままスムーズに暮らせると思っていましたが、相続して数か月後に、近所中からの陰口や無視などが始まりました。

私の近所はかなり閉鎖的な人間たちで、いじめ主犯に従わないものは一斉にリンチをするような集団でした。
新しく引っ越してきた私と近所の間には溝が既にありました。私一人が近所14軒のどこか一つに対してでも納得いかないようなことをしたらすぐに井戸端会議で取り上げ、私以外の人間たちで私をいじめ始めるという極めて陰湿な集団です。

私が大学生の頃までは、この連中はここまで陰湿だとは思っていませんでした。私が相続した家は母の実家であり、人生の半分近くはこの家で暮らしています。近所も知り合いの老人達でした。

だから相続してから見知った人間達を中心に、私一人へのいじめが始まるとは想像もしていませんでした。

私は彼女たちの道具でも奴隷でもないと訴えましたが、一切無意味でした。
最初から新しい住人を既存の住民たち全員で評価し、気に入らないなら全員で叩き潰す、そういう集団です。

ちなみに私の家のすぐ近く(道路約2mを挟んで行われる井戸端会議)なので、古い家屋で大きな窓ガラスの我が家に聞こえていました。
陰口を言う人達は声を潜めたり声色が変わるのでわかりやすいです。

老人と若者の聴力差かもしれませんが。老人達は声が聞こえないから陰口も声が大きい。長年同じ場所、同じ人間関係で井戸端会議を続ける主婦達も、感覚がマヒしているのではないでしょうか?

人の家の事情を推測して勝手な噂を流したり、聞き出して勝手に拡散するなんてことは、ハッキリ言って非常識だと考えますが、連中には当たり前の事のようでした。

そしてこのいじめを始めた人間は、私が当時一番信用していた近所のそろばん塾のおばぁさんで、私が叔父の危篤時に、近所の人の中で一番最初に連絡するくらい、子供の頃から信用していた方です。

この方が私の相続後に、周りにいじめを提案し、7年続く今もいじめの主犯として、私を町から追い出そうと周り近所や周辺住民に訴え、私に冤罪をかけて警察に何度か通報した方です。

このいじめの主犯含め、周りの住民たちは私の幼い頃からの知り合いがほとんどですが、その知り合いたちがいじめの取り巻きや加担者です。

私が苦情を言ってからは、被害者である私のせいにして逃げ、全ての問題をいじめ主犯か私のせいにして、現在はいじめ主犯がいくら説得しても変わらないと見るや、被害者である私がトラブルの原因であるとして、いじめ主犯やその取り巻き同様に、私が町から出ていく事を願っている人たちです。

私はここまでえげつない人たちに38年の人生で一度も遭遇したことがありません。
色々な職場を転々としてもここまで酷い人間の集団はありませんでした。「自分たちさえよければ他人の人生などどうなろうと知ったこっちゃない」という姿勢。

無責任にいじめに加担しておきながらいじめを始めた人間や自分が加担していじめた人間のせいにし、加担した自分を何一つ反省せず逃げ回り、被害者のせいにして八つ当たりでわめき始める大人達。

いじめ主犯に至っては全てを被害者の私のせいにしています。そしていじめ主犯は自分の開催するそろばん塾で小学生たちに勉学を教え、人の道を説いているのです。

人の人生をメチャクチャにしても一切この方たちは反省すらせず、自分のした事は常に他人のせいにして被害者面、誰一人私に詫びの一言もなく、今も自分たちが被害者かのような態度で暮らしています。

この人達はいじめ主犯がいなくなっても、また誰かが音頭を取って同じことを繰り返すでしょう。誰もが逃げて納まるのを待つだけで、自分のした事を反省していないのだから。

私は何度も何度もこの近所の幼い頃から知っている方たちに裏切られ続け、ついに近所の完全無視に至りました。

彼女達がそもそもいきなりいじめを始めたのに、結局は加害者全員がまるで被害者かのような態度を取り、自分たちがいじめ続けた相手が問題を起こした人物かのようにすり替えて扱い続けることに、ウンザリしたからです。

これ以上彼女たちの被害者ぶる態度に不愉快さが我慢できなくなりました。


仕方なく加担していた人たちにも「テメーの保身のために人を犠牲にしたくせに被害者ぶってんじゃねーよ」と言いたい気持ちもありますが、何を言っても無駄でしょう。

「いじめ主犯に逆らえない私たちも被害者」として、何年も私をずっと連中と一緒に貶したことの詫びの一言すら誰もない連中ですから。

ひとりの大人としても、人間としても「論外」です。呆れ果てたとしか言えません。


そして私自身、近所の人たちに対抗していると、「私も彼女たちと同じような人間になってしまう」と感じたので、私は近所一帯と縁を切る事にしました。今では一切挨拶もしませんし、なるべく顔を合わせないようにしています。

よくもまぁあれだけ一方的に嫌がらせを何年も続けて、被害者面していられるなぁと。思い出すだけで腸が煮えくり返る思いなので、もう考えないようにしています。

私も彼女たちに怨みを持ち続けていると、同類の人間になってしまいますからね。ブログを書く際も意識して毎回書き終えたら考えないように筋トレしたり、読書したり、忘れるようにしています。

自身の過去を振り返り、フィルターを外す

まず、認識のミスを修正しました。裏切られたのではなく、相手達の本性を見抜けなかったと、自分の人を見る目のなさを反省しました。

父に報告した際、父が「あの人たちはずっとそうだよ」と言っていました。しかし、私には思い当たりませんでした。

幼い頃を振り返り、まだ祖父母や母が生きていた頃のことを思い出すと、不思議な点が思い浮かびました。

  • 我が家は、私の記憶ではご近所さんたちの井戸端会議には参加しなかった。
  • 祖母も、脳震盪で倒れた後、リハビリのために体を動かす必要があるのだが、あまり散歩に行かなかった。
  • 祖父も、動けるにもかかわらず、ほとんど寝たきりで過ごした。


祖父母や母は、知っていたのかもしれません。周りの主婦たちが陰口や悪口ばかり言っている連中だと。

知っていたからこそ、彼女たちの井戸端会議に参加するのは、私の教育上良くないと考えていたのだと思います。

私の母は、私の手本となるような行動を常にとっていました。私が小学生の反抗期に、一度だけ母に手をあげた時も、殴り返さず、理性的に私を説得しました。

私が認知症で大分ボケてしまった祖父母のストレスから、何度も祖父母の陰口を言っていた19歳の頃は、何度も私に陰口は良くないと教えました。
私もそれから我慢して祖父母の陰口は止め、ストレス解消のために運動など、別の方法を身につけていきました。

私の記憶にある限り、母が大人数のいわゆるママたちの輪に入って、ママ友みたいな集団行動はほとんど見たことがありません。
母はいつも一人か二人の人としか、深い付き合いをしませんでした。


マザコンかもしれませんが、少なくとも私の近所の人たちに比べたら、しっかりと「自分」を持った賢い人だと、亡くなった今も自慢の母です。

誰かの愛が自分を守るバリアーになる

私は家族に愛されていた。過保護すぎるくらいの家族でした。

近所のいじめに心が押しつぶされそうに何度もなって、自殺衝動が膨れ上がる日々の中で、私は自身の過去を振り返って、自分が愛されている事を思い出しました。

さらに出生時のアルバムが出てきた事で、私につけられた名前の意味と出生時の状況、過保護すぎるくらい過保護だった理由も知りました。(生まれる際に逆子だった事、首に腸が巻き付き、仮死状態で生まれた。帝王切開。ちなみに私はひとりっ子です。)

そして、「近所の信用できる人たち」という近所の人たちへの思い込み、私自身が持つ他人への執着と人の評価をいちいち気にして、やりたい事もやらない弱さを克服し、自分の人生を自分の責任をもって生きると決意し、自分を変える事にしました。

思考が慣れるまでは大変でした。今までの30年以上生きてきた自分の経験による人生観を、根本的に変えたのですから。(改善は主に筋トレと自尊心の書籍を読んで実践した事などです。)

ちなみに人生観が変わったといっても、以前の人生観の影響も残っています。しかし、自分でどんな人生にするかは私自身が選べるのです。
今まで生きてきた良い事も、悪い事もすべてを含めて自分独自の人生観を持つに至りました。


どれだけ近所からこの町に住むことを迷惑がられて、嫌がられても、私は自分の意志で選択し、自分の責任の下に生きています。時々弱ってしまう時期もありますが、それは精神が風邪を引いたものとして、乗り越えています。

この先何があっても何とかなる気がします。私はすでに変化した人生観を経験していますから。