人間はいつか死にます。どんな人生を送ろうとも、どんな人も過去になっていきます。

 

それは社会的に成功した人も、犯罪者も、全て同じです。

 

現在の世の中ではインスタグラムやツイッターで成功体験を載せている画像や記事が出回っています。そして世の中にはいわゆる「成功者」も多数います。

 

私たちは彼らを「羨ましい」と感じることもあります。嫉妬してしまう事もあります。しかし、彼らにも社会人としての下積みや苦労があるのです。(中には見栄を張っているだけの方もいますが。)

 

私のこの個人ブログでも、内容がまとまらなかったり、「筆がノらない」といった感じで、途中まで書いて終了して、下書きだけでも、この2年間で20記事前後はボツにしています。「これでいいかなぁ・・・うーん。」と記事にしたものもあります。

 

ボツにするにはもったいないネタの一部はカテゴリの日記でその部分だけ引用したり、書いているうちに思いついてそのまま記事が書けるようになる事もあります。

 

それを苦労として捉えるか、捉えないかは人によります。私の個人ブログの場合はマイペースでノルマもない、日記や体験談なども書いているブログなので、特に苦労とも思っていません。

 

だから苦労というものは、その人次第で良い思い出にも、悪い思い出にもなるのです。

 

良い苦労と悪い苦労

良い苦労と悪い苦労。これは自分の心が全てです。思い出す時に楽しい気持ちになる苦労は良い苦労。思い出す時に苦しくなるのは悪い苦労みたいなものです。

 

そして悪い苦労も良い苦労へ昇華することができます。

 

良い苦労と悪い苦労を分けるのは、その時の感情です。悪い苦労には大抵、怒りや悲しみを伴います。しかし、この感情を切り離して、ただの記憶に変える方法があります。

 

それが、新しい趣味や仕事を見つける事です。新しい事を行い、過去を思い出す事を減らしていくのです。考える時間を減らして今に集中すれば、良い事も悪い事も全ては「昔の記憶」になります。

 

良い事も悪い事も、思い出す機会が減れば、その時の感情を切り離して「ただの記憶」になります。「あぁそんなこともあったな」と悪い記憶の方だけ感情を切り離すことも可能です。

 

私もそうやって悪い記憶は、感情を切り離して起こった出来事だけ思い出して、良い記憶にはその時の画像を見て、感情も伴って思い出そうとします。そして今を生きて、この良い記憶ばかり思い出すようにすると、いずれ悪い記憶をふと思い出した時に、ただの「昔のどうでもよい出来事」に変わっていきます。

 

人間の脳は、自分にとって都合よく出来ているのです。

 

全ての出来事は過ぎ去っていく

たとえば酷いいじめに遭った、相手に陥れられた。これはその人にとってとても苦しい事です。しかし、これらは全て、物事が起こった後には無くなるのです。

 

たとえばその日、いじめに遭った場所があるとします。しかし、いじめが終わったらその場所にはいじめをした人も、いじめを受けた人もいません。そしてその場所に全く関係ない人が来ては誰かと待ち合わせなのか、友達と雑談を始めたりします。その人たちはいじめがそこであった事すら知りません。

 

もっと極端な事を言えば、私たち人間が暮らす土地では、過去数千年以上、戦や飢饉、災害などが起こっています。私の暮らす土地にも古墳が残っていたり、城の修復作業が行われたりします。

 

私たちは歴史で知っていても、当事者ではないので知りません。もしかしたら自分の暮らす場所で、いじめもあったのかもしれません。だから、今の私たちには誰も知る事はできません。全て過ぎ去った事は、当事者の頭の中にしかない記憶です。

 

言い換えてしまえば、良い記憶も悪い記憶も全て自分に主導権があります。自分が覚えていようとすればいつまでも残るし、忘れようとすれば大部分は忘れます。

 

たとえ霊能力のある人であろうと、自分で嫌な記憶をわざわざ思い出そうとしない限り、忘れたままにできます。全ては自分次第です。

 

今が楽しくなれば、昔の記憶はすべて、その時の感情すら忘れた時に「昔の記憶」になります。仮に昔の状態に戻っても、「かつての今の記憶」を知っているなら心の持ちようも変わっています。

 

新しい事を探せばいい。全ては自分次第で、人生が終わるまでの時間を楽しいものに変えていけるのです。そして全て過ぎ去っていくのです。

 

それが「寂しい」と感じる方もいるかもしれません。私も実際「寂しい」と感じる人間ですが、どうにもならないのです。手放す事に慣れていくしかありません。

 

だから過ぎ去る記憶の中で、良い記憶や、良い記憶と悪い記憶が両方残るものにかかわる物品だけ手元にいつまでも置いておきます。私の死後にどうなろうと私は関与できませんし、知らないので、私の死後は私の遺体と同様にどうなろうと関係ありません。それは「私」が過ぎ去るまでの話だからです。

 

このブログもいつかは無くなります。それでいいと私は思います。

 

全ては過ぎ去るものである。だから世の中は良い事も悪い事も起きては、それでも続いていくものなのでしょう。