※今回の記事は、今まで私の記事を読んでいた読者の方を裏切る形となるかもしれないのであらかじめ謝っておきます。申し訳ございません。
私がこのブログを立ち上げたきっかけは、近所からされている嫌がらせに苦しみ、誰にも自分の正当性が伝わらないまま終わる怨みから生まれました。
彼女たちの所業を残し、世の中には善人の顔をした鬼畜がいると、「被害に遭った方への苦しみの共有、これから被害に遭う方への警告、立ち直る経緯の参考になればいいな」という思いもあります。
私は相続から数か月後に始まった彼女たちのいじめに遭い、ほぼ引きこもり同然に何年も過ごしました。(「ほぼ」というのは一人暮らしのため、夜中に買い物や、家族の墓参りには出かけているからです)思考に固定の場所にしか行けない縛りもできました。
相続から何年もその状態が続き、その中で受けた嫌がらせの他にも、良い事もあったという事です。
ここに書かれている事は私が受けた私視点での嫌がらせをされた事実です。2021年1月にこのブログを設立したので、6年目7年目は嫌がらせを受けるたびに追記していったものなので記憶違いは少ないかと思います。
しかし、ここ7年いじめを受けていた嫌な事「しか」なかったわけではありません。良い事だってたくさんありました。私の記憶が嫌な事が頭に残り、良い事を頭の中から消していただけなのです。
辛い、悪い記憶ばかり頭の中で思い出すから、頭は悪い記憶ばかり強化され、いつしか自分の思考が「嫌な事しか覚えていない」と考えるようになったのです。
私が嫌な記憶から抜け出せた理由
それは、過去に自分が撮った写真です。何気なく昔撮った写真のフォルダを開いた時に、記憶の蓋が開きました。それまでは、嫌な記憶ばかり思い出していて、良い事を思い出す事が少なかったため、嫌な記憶が強化され、頭の中で延々と浮かび続けていたからです。思考が固定されていた状態とも言えます。
つまり、5年ほぼ引きこもりと書くのは語弊があります。んで、なんでそう書くようになったかというと、上記の事をいちいち説明に挟むと文章が冗長になるし、面倒だったことを思い出しました。
だからまとめたのです。「ほぼ引きこもり」と。
私がほぼ完全に引きこもり状態となり、夜中にスーパーにしか行けなくなった状態は2020年あたりの1年ほどという事になります。「家に夜はいなければならない」と思考に縛りが発生するのが2019年以降。それまでは2015年の相続後にほぼ毎日続いていた近所からの私への陰口に耐えて、ある程度の外出はできたという事になります。
その後の自由に外出できるようになった経緯は、この記事の通りです。
ちなみに現在2023年1月は、近所との仲はどういう状態かというと、
- 近所とは口をきいていない(相手も話しかけないか、舌打ちして通り過ぎる)。
- 近所も私の家の前へ集まって世間話をしなくなった。
- 私も家の窓はほぼ閉めっきり。換気のためにたまに開ける。
- 周り近所からの監視。(私が外にいるのが見える家は絶対外に出ない。ときどき近所の家の窓が開く音がしたり、人影が見えます。たまに子供に監視させているようで「まだいる~」と親に言っている声が聞こえたりします。)
あの人たちは私の相続から8年目になっても未だに誰も反省しないし、誰かのせいにしているという事も分かりました。歳も歳だしもう一生あの性格は変わらないでしょうね。
何をやっても被害者面で「誰かが謝れば解決」という小学校の学級会の感覚のままで、また自分が誰かに加害しても都合が悪くなれば他人のせいにして生きていくのでしょう。肉体はどんどん歳を取って精神は小学生くらいのままで人生を終えるのは、幸せなのか不幸なのか分かりませんね。
まぁ人の人生なんで、その人の自由ですわな(皮肉)。自分もそうなるかもしれないし、気をつけないといけません。
今苦しんでいる方へ
私は今も人間を信じていません。人間嫌いなままです。しかし、それでいいと考えています。人間は皆、好きや嫌いでは測れない人生を送っています。
私たちが他人に見ているのは、他人の数十年の人生の中の一部でしかありません。同様に相手が私たちに見ているのも、私たちの人生の一部でしかありません。人を理解したい、理解してほしいからこそ自分の正当性を、「わかってほしい」と訴える。だから他人に執着してしまうのかもしれません。
しかし、親子でも数十年の付き合いのある人たちでも、人生で感じたものは皆異なります。だからこそ相いれない事もあるのは仕方のない事です。相性が悪いのは仕方のない事です。わざわざ不可能を可能にしようとする必要はないんですよ。
「みんな仲良くしましょう」なんて事が通用しないのは社会に出れば痛感する事です。
もちろんそれを決めるのは皆さまです。私個人としては、わざわざ相いれない人と和解しようと時間を割き続けるよりも、こうして「何か自分ができる事はないか」とブログの記事を書いたり、終わったら出かける時間の方が有意義です。
人と距離を取っていいし、嫌いな人は嫌いなままでいいと思います。そんな人とも協力しなければならない時は、協力すればいいのです。相手のためではなく、自分自身のために。
自分の意見は言っていい。その結果どうなろうと、それは他人の決める事です。折り合いをつけてなかった事にするか、それとも排除しようとするか。相手がどう選ぼうと、自分は自分のまま堂々としていればいいのです(それができないからみんな苦しんでいるのですけどね)。
だから、「心のままに生きてみよう」と提案します。
いいじゃないですか。何が起ころうと、人生は続いていくものです。せっかくなら違う事をして、違うものも見て、変化や上手くいかない道を楽しむ方法を探して生きる。会社に迷惑かけたっていいんですよ。
自分がいなくなって会社が倒産しようと、会社に迷惑をかけようと、それは会社側のなんとかする問題であって、個人には関係ありません。世の中にはいくらでも退職したり、休職したり、独立する人だっています。
あなた一人でどうにかできるほど、世界は小さくないのです。だったら好きに生きて、志を同じくする人と集まって、何か大きなことを成し遂げてみるのもいいでしょう。
おまけ:記事を書く前の葛藤
正直今回の事を記事にするのは、勇気がいりました。自分の記憶の間違いを認める事だし、今までの読者にどんな非難をされるか分かったものじゃない。ネットなので魚拓を取られれば永久に残ります。
しかし、あえて書くことにしました。私は正しい事をしても間違いを犯しても、「私は良い部分も悪い部分も含めて自分を好きだから」と日頃から書いている通り、生きているからです。誰かに嫌われようと、私は私である事が好きだし、これからもそうして出会いと別れを繰り返して生きるでしょう。旅人のように。
人間らしいというのは間違える事があるという事です。皆さんだってそう考えませんか?いつも成績トップで優秀な人がドジなところを見せたりミスをしたら、「人間らしく感じて情が沸いた」という人もいるのではないでしょうか?
人は間違える。間違ってもいい。でも、間違えた先をどうするのか。その先こそが人の本当の真価であると考えています。
ありがとうございます!ただ、意識が戻っただけで会話できるほどではなく、まだ深刻な…
お父様の意識が戻られたようで良かったです! やりたいことは、どんどんやった方が良…
こんにちは。ありがとうございます。
こんにちは。自分の健康と安全を第一に、ゆっくり休んでくださいね!
コメントありがとうございます。 「悟空ならこういう時どういう考え方をす…
私もドラゴンボールが好きでしたが、 こういう良い作品のおかげで真っ直ぐな自分でい…