私の考えなのですが、死後の世界は正直な話、「あってもなくてもどっちでもいい」と思っています。

 

私は以前、このように書きましたが、もしも科学的に「神や仏が存在しない」と証明されたとしても、ただの勘違いだったとしても、人生は続くのです。

 

「へ~神や仏はいないんだ~。また一つ事実が明らかになったね。」というだけの話です。

 

ちなみに私の場合は、神や仏がいないと証明されても今と変わらないと思います。

 

八百万への感謝が私の根本なので、様々な出来事に感謝することに変わりはありません。私はそれを「神様や仏さま」という名称で呼んでいるだけです。

 

名称や定義自体は、人間が「誰か」と認識を一致させるための方便でしかありません。神や仏の呼び方が、「それ」でも「あれ」でも私の中では変わりません。なぜなら「神や仏」という呼び名自体が、他人との認識でしか使わないものだからです。

 

外国人の神(キリスト)と、日本人の神(天照大神など)では、認識も違いますが。いずれにせよ自分を救ってくれる存在であることに変わりはありません。ある意味では認識は同じとも言えます。

 

だから存在しようがしまいが、対象や事象への自分自身の「思い」こそが全てだと考えています。

 

だから私には「神や仏」が存在しなくとも問題ありません。「自分の中の思い」が答えだからです。

 

神や仏がいてもいなくても人生は続きます。だから、それが明らかになったところで信じている人はこれからも信じるだろうし、信じていない人は自分の考えが合っていたと満足してこれからも生きていくでしょう。つまり、どちらでも自分の人生が続いていくことに変わりはありません。

 

話が脱線しましたが、死後の世界についての考え方を紹介します。私の考えですが、参考になれば幸いです。

 

死後の世界がある場合

死後の世界があるならば、私の死後に私はあの世というものを知る事になります。どんな事ができるのか、どんな場所なのか、興味は尽きません。

 

そしてそれは、死んでみないと分かりません。死後に生前の経験が活かせるかもしれません。死ぬまでの人生を色々経験していきましょう。

 

死後があると分かるなら、死んだ後に考えればいいのですから。だって「ある」んだから。

 

死後の世界がない場合

死後の世界がないのなら、そこで終わりです。肉体は残った身内が葬式という処分をしてくれるでしょう。

 

死後の世界がなくとも、残った身内や知り合いの、心の支えや偶像として、人々の記憶に残るのかもしれません。あるいは大きな良い功績を残した人は、多くの人に長い間尊敬されていくでしょう。悪い功績を残した人は悪い印象を残して終わるでしょう。

 

時が経てば他の証拠が出てきて、死後に化学が進み、名誉を挽回できるかもしれません。ガリレオ・ガリレイのように。

 

いずれにせよ、死後の世界がないのならあなた本人は、死んだら終わりです。死ぬまでの自分の人生を色々経験して生きていきましょう。だって「ない」んだから。

 

結論:今の人生を生きましょう。

上記のように、死後の世界があろうとなかろうと、結論は変わりません。今生きている人生を自分の好きなように生きればいいのです。

 

現在の視点から死後の世界があると分かる霊能者の方もいるようですが、私には死後の世界があるという確信も霊能力もありません。つまり、本当に死後の世界があるのかどうかは、死んでみないと分かりません。

 

「生命はいつか生まれ、いつか死ぬ。」これだけは太古の昔から決まっているのです。

 

だったらそれまでの人生はいろいろ経験して、楽しく終わりのその時まで満喫した方がお得です。よって私は、人が私の人生をどう思おうと、勝手にすればいいと思い、私の人生を生きています。