私はいじめを受けて自分自身の内面にも、いじめ加害者の内面にも様々な知識や体験を通して考察をしたり、対策を練りましたが、最終的にたどり着いた結論が、「嫌な事は考えない。楽しく感じられるように過ごす。」これに尽きると思いました。

 

自分の気持ちが嫌になる事件やニュースは見ない。嫌になる話は聞かない。

 

自分が楽しくいられる事。嫌な事でも視点を変えて楽しく感じられる部分を見つける事。絶望や苦しみの状況すら視点を変えて楽しめる状況を見つける事。これができればもはや問題ありません。

 

自分の良い所も醜い所も認めると、自分の本当の状態に気づく事が早くなり、すぐに対処ができるため、酷い状態になる前に気づくことができます。

 

自分だけは自分の味方でいよう

例えば私は近所トラブルで近所にメチャクチャ恨みを持っていますが、恨みを持っている、抑えられず記事にする自分自身に失望しないんですよ。

 

読者の皆様が失望しようと軽蔑しようと、自分自身の事だけは読者の皆様と一緒になって貶さない。

 

自分自身すら見捨てたら、自分がどこにいるのかわからなくなります。

 

人からクズだの犯罪者だの呼ばれようと、自分自身だけは自分の味方でいる事。

 

肉体の自分と心の自分が存在するのです。

 

どんな自分も肯定できるようになる考え方

皆さんにも覚えがあるのではないでしょうか?

 

たとえるなら怒りに身を任せて相手を殴りつけたい時や、文句を言いたい時に、肉体の怒りを抑えた自分。肉体とは別に理性で抑えたもう一人の「私」のようなものです。

 

私はゲームが好きなので、ゲームでたとえています。

 

ゲームの画面の中で操作するキャラ=わたし

画面の向こうでコントローラーを動かしている=私

 

ゲーム内のキャラクターである「わたし」は、魔王を倒しに行くのが目標です。その世界の法則やルールに則って行動します。しかし、画面の向こうの「私」は、残虐な魔王側の事情も考慮するわけです。

 

ゲームをしない方でも、現実で事件が起きた際にニュースを見た時、加害者、被害者の両方の視点で考える事があるのではないでしょうか?そして出した結論がある。

 

当事者として加害者、被害者のどちらの立場でそこにいたとしても、自分自身を絶対に肯定するのです。なぜなら本当に悪い事なら、自分ではない誰かが糾弾するし、裁くから。

 

良い事をしても悪い事をしても、自分だけは自分の味方を無条件でする事。それができれば自己否定もしないし、自暴自棄になったりする事もない。

 

なぜなら自暴自棄で起こしたことでも自分を受け入れられるからです。たとえ反省しなくて世間から「クズ」や「悪人」と見られようと自分を肯定すればいいのです。

 

だから私の場合、近所の人たちのしたことは許せませんが、「いつまでも人を許せないで憎んでいる事がよくない!」「こんな自分は最低だ!」と自分の気持ちを否定するのではなく、「許せなくて憎んでいる自分もまた自分なのだ。」「最低なのもいいじゃないか。」「心の黒い人間だなぁ」と受け入れています。

 

私がバランスをとれているのは自分が綺麗な人間だと思っていない事もありますし、特別、特殊な人間になりたかったという思いもあります。称賛されたい承認欲求もある一方で、心の中では色々な事に嫌悪し、憎悪を抱えています。

 

20代の頃、私は気持ちの切り替えが下手で、仕事とのオンオフがうまくできていないと指摘されたことがあります。その頃はどうすればいいのかわかりませんでした。

 

しかし、今ならわかります。あの頃の私は自分の心のストレスに感じる自分の本心「だけ」を無視していました。人を嫌うのは良くない、人にこんな思いを持つのは良くないと。そういう子供への叱り文句の常套句が、私の本心の汚い部分を受け入れる事を拒否し、私の心を締め上げていたのです。

 

良くも悪くもそのままの自分でいい

人に優しい気持ちも持てるけど、自分の打算や黒い気持ちも同時に持っている。等身大の自分をそのまま受け入れたからこそ、現在はすぐに心の状態が分かるし、対策を取れるようになりました。

 

心が潔癖症に近い状態は、必要以上に悪行を嫌悪したとわかります。

 

それは他人に対して「俺がどんな酷いことをしてもお前らは許せよ。」という免罪符ではなく、「自分の理想やイメージ通りの自分じゃなくていい」という自己肯定です。

被害を受けた人から責められるのは当然なのです。ただ、「責められても、相手と一緒になって、相手側の視点から自分を貶さなくていいんだよ」と、自分だけは責められる自分を慰めてやればいいのです。

 

なぜなら被害を受けた人も、相手を責める自分を肯定しているからです。「正論を手に入れたから相手を責められる。」そんな自分を肯定しています。

 

倫理、法律、道徳的に間違っていたことをしたら謝罪は必要ですが、謝罪した相手を必要以上にいつまでも叩くというのもおかしいし、謝罪したから自分が精神的に優位に立って、自分の都合を通そうとするのもまたおかしい話です。

それではいつまでも加害者と被害者は立場を入れ替えて繰り返されていく。人の歴史が証明しています。

 

本物の自己肯定の影響

本物の自己肯定は自分の良い所も悪い所も受け入れるので、結果的にポジティブな感じになります。「このままの自分でもいいのだ。」と理解するからです。

 

あるがままの自分を受け入れ、自分の思うとおりの生き方をしていく。そう続けていくと自分のやりたい事や、やりたくない事を見極められ、今までの自己分析が偏っていた事に気づきます。

 

人との関わり、趣味、仕事に対する姿勢、本当に全て変わっていきます。心の余裕ができるのです。なぜなら「このままの自分」のまま、変わっていきたいと思うなら、変わっていけばいいからです。

 

加害者にも被害者にもならない第三の道に進むためには、許す事を覚える必要があるのですが、これがなかなか難しいですよね。私も近所トラブルで人のことは言えないので、私は自分に対して「お前もうまくできないよなwまぁ気にすんなよ。」と自分自身に呼び掛けていますし、うまくできない自分をそのまま肯定しています。

 

近所に対して無視をしているとは言っても、挨拶をされたら返すし、基本的にお互い近寄らないし私も顔を向けないので、無関心に近いです。それでいいと思います。非常識な相手自身の問題まで私が抱える必要はありません。

 

それでも罪悪感などを感じることもあります。それでいいのです。「それもまたお前らしい。お前さんはお前さんのまま一歩ずつ日々を生きていけばいいさ」と、私自身という最強の味方が心の中にいるのです。私がこの環境でも自暴自棄にならずに生きていられる理由です。

 

私の過ちも含めて「私が私であることの証」だからそのままの自分を肯定しています。

 

人間の真実に到達した話

子供の頃に大人たちから言われた思想、「人と喧嘩してはいけません。人を悪く言ってはいけません。」これは確かにそうです。

 

しかし、現実にはいくらでも「してはいけないこと」をする大人たちが溢れています。そして気づきました。その言葉は「自分の仕事が増えるからめんどくさい」大人たちの都合だという事を。

 

子供の頃に大人の言いなりで真面目だった私は、自分が社会に出て体験の落差をうまく消化できず、心が悲鳴を上げていた事に気づけなくなったのです。

 

それを知ったうえで、最終的にたどり着くのが「人に迷惑をかけてはいけないし、人と喧嘩をしてはいけない。なぜなら自分が不安で嫌な気持ちになるから」です。

 

つまり、結局は人間はみんな自分の事だけしか考えていないし、その考える事が人も幸せに感じる事ならそれでいいのです。生前の仏陀もキリストも、自分達が生きやすい世の中にしたいと考えていたのでしょう。だって善行であふれた世の中は、とても生きやすいし、自分達も安全で幸せな気持ちで生きられるから。

 

善と悪を決めたのは誰でしょうか?そもそも良い事と悪い事を区別したのは神や人間です。行いそのものは行いでしかありません。そこに善や悪の概念を付加したのは「誰か」です。

 

自然界の動物たちにも縄張りや群れの生き方がありますが、そこに善悪はありません。私たちは生きるために掟を言語化しました。それが法律です。

 

「自分の生きやすい世の中にしたい。幸せに暮らせる世の中にしたい。」それはかつての古代エジプトの王、仏陀やキリストなど、カリスマ達も自分達が生きやすいし、私たちにとっても幸せな世の中。

 

彼らは、私たちと同じ。「ただ幸せに人生を過ごしたかった」のだと私には感じるのです。彼らは人々の醜さに辟易していて、人々に気づかせ、変えたかった。つまり、それは人の汚さ、醜さを自分達が見たくないから。彼らの都合です。「神仏って私たちと同じで人間らしいなぁ。」と。

 

そう考えると私たちは神仏と同じ事を考えている。すなわち私たちもまた、神や仏と同じとも言えます。「人はみんな神の子供」というキリスト教の意味はこうした事なのかもしれません。(聖書なんて読んだこともありませんので推測にすぎませんが。)

 

宗教は長い人の歴史によって、捻じ曲げられている。宗教家の権力を保つための形式的な文章。神を利用した脅迫、分かりにくい教え、継ぎ足したエピソード。宗教は人間の都合で変えられてきました。本質は幸せに暮らしたいと考える人たちが幸せに過ごせればいいのです。

 

まぁそんな事を世の宗教家に行ったら侮辱だと問題になるので、私のブログの中でしか書きませんがw

 

私も困ったら神仏にすがる人間なので。別に尊敬も感謝もしていないわけではありません。一番ひどい精神状態の時に頼りました。「でもそこまで無条件にあがめる事か?」という感じではあります。

自然信仰の傾向が強い私ですが、神仏はご先祖様のさらにお偉い様みたいな感じです。

 

どんな人も自分を肯定していい

いいんですよ。自分のやる事を肯定していれば。

 

正しい間違っている。それを決めるのは他の人です。自分は好きに生きたらいいと思います。

 

私は犯罪をしないのは、私が捕まって自分の人生の時間を制限されるのが嫌だからです。

 

刑務所に入ったらゲームで遊べないし、野鳥を見に行けません。山も川も見に行きたい時に見に行けないのでストレスになります。人生の時間は決まっているのに、わざわざストレスを溜めて過ごしたくはありません。

 

その結果、善良な市民になっていればいいと思います。だって警察官だってわざわざ面倒事の処理なんてしたくないでしょう。皆さんも仕事中にクレーマーが来店したら嫌でしょう。

 

世の中はみんな自分の都合で動いているのです。その都合が「誰にとって良いか悪いか」は人によって異なります。

 

世の中そんなものなので、自分を肯定して一生懸命生きてもいいし、ゆる~~く生きてもいいのです。熱血したい時はすればいいし、ダラダラしたい時はダラダラしましょう。その結果自己嫌悪するのもまた自分ですが、それも肯定すればいいだけです。

 

まぁ難しく考えずに、楽しく過ごせるようにすればいいのです。