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人を恨んではいけない理由は、簡単です。

その人や自分の死後も、恨んでいる相手と縁が切れないからです。


この世へ未練や恨みを抱えた人が悪霊になるという話は聞きます。つまり、死後も生前と同じような恨みに執着する事になります。

あなたが被害者であれ、加害者であれ、恨みを持ったまま死んだ人に対して、誰もいいイメージは持ちません。
全く関係ない第三者から見れば加害者であろうと被害者であろうと、危険な存在になる事に変わりはありません。

仮に恨みが晴れて成仏できても、輪廻転生があるのなら、魂が学ぶ必要があるため、また同じような加害者と被害者のグループとして、この世に生まれてくることになります。

だから本当に死後の世界があるなら、私たちは死んでも苦しみからは解放されないという事です。

「死後の世界なんか存在しないからいいじゃないか。」と思う人もいます。ならば好きにすればいいと思います。その人の自由です。

私は霊能力者ではないので、「死後の世界がある」などと確定したことは言えません。しかし、だからこそ死後への保険が必要だと思っています。

人を恨まない事は、自分自身への保険である

皆様も自動車やバイク、自転車を運転しているのなら、車両保険に入っているのではないでしょうか?

「自分は事故を起こさないから保険には入らない」という人は少ないかと考えています。皆様も「もしも」の事を考えて車両保険に入っているのではないでしょうか?

昨今の老人の車の事故や逆走の報道などを考えれば、「自分も老後に気をつけなければならない」と、私も考えているので保険に入っています。

私は、人を恨まないようにするというのは、死後に「魂の私」が存在すると仮定した時の保険として考えています。自分自身にかける死後保険です。

生前に、自分がどんな被害を受けようと、人を恨んで、死んでいった人間はこの世に留まり、悪霊として残ると言われていますし、心霊写真でもハッキリ写っていたりします。

心霊写真に写った写真を見て「幸せそうだ」という感想を持つ人はいないでしょう。


強烈な未練や執着を持つものは成仏できず、悪霊となり果てる。死後に大切な人と再会する事もありません。

恨んでいた相手がこの世にいなくなっても、自分はいつまでも留まり続ける事になり、救われる日が来ないので、亡くなった家族やペットとも会えなくなります。

死後にまで、いつまでも嫌な連中を恨んで自分を縛り付けたくありません。

恨みを持ち続けると生前も死後も来世も地獄になる

たとえ奇跡的に成仏しても、自分と同類の魂として、生前に恨んでいた加害者と同じ魂の階層に行くことになります。

輪廻転生も「前世の自分の課題の解消」だから、生まれ変わってもう一度、前世と同じ加害者か被害者として、同じような体験をして学習しなければならない。
それこそまさに「地獄」ではないですか?あの苦しみをもう一度誰かに与えるか、与えられるかなんて。

だから加害者の事を恨むだけでなく、恨みが薄れるくらい楽しくて幸せな事も探して生きていきましょう。

もちろん、これは魂や輪廻転生が存在するとした仮定の話です。存在しないと思うのならこの世で好き勝手に生きればいいと思います。

誰も死後の世界を第三者に観測させたり、証明した人はいません。

それでも世界中で死後の世界の話をする人は太古の昔から存在しているし、霊能力者もいると言われています。
では自分が確認するにはどうすればいいのかというと、それは死んでみなければわかりません。


しかし、わざわざそんな事を確認する必要はあるのでしょうか?事故や老衰だろうと、生き物はいつか死ぬのに。必ず自分で確認する日は来るというのに。

なるべく恨みや執着を捨てた方が自分の徳にも得にもなるのです。人を恨まないようにするという事は、自分の人生の保険もいえるのです。

ちなみに私は輪廻転生が仮に本当にあるのだとすれば、もう一度生まれ変わって私の近所のいじめ主犯やその取り巻きと来世でまで関わりたくないので、恨みの気持ちを今の人生で薄れさせ、乗り越えようとしています。

梅雨の時期や睡眠不足など、よほど精神状態が悪くならなければ、あまり気にならないくらい薄れてきました。
このブログを始めた時から約2年半。ずっと抱えた恨みを薄れさせ、捨てるためにもがいてきて、成果が出てきたのを実感しています(私の精神状態なので説明のしようがありませんが)。

それに、天啓と言える出来事があまりに強烈だったので、かなり恨みを薄れる手助けになっています。


ただ、私は近所の連中は私の事を未だに不審者や危険人物、犯罪者として扱っているので、わざわざ自分へ悪意を向けてくる連中とは関わりたくないので今後も避けていきます。勝手にやってればいいと思います。

わからなくても理解しようとする姿勢は大事

最初は何もイメージできない手探りだった事が、自分の中で形になっていくのは、やはり「見えない何か」と繋がっているなぁと。「霊感とかはなくても、見えない世界と共存はできるのだな」と思いました。

日本では宗教の悪いイメージもあってか、心霊やスピリチュアル=霊感商法や陰謀などで、全否定から入る人も多く、「それって思考停止じゃないの?」と感じます。大抵こういう話をすると霊感商法に引っかかると心配されますが。

ちなみに私は精神状態が不安な人には、神霊を理解しようとする事をお勧めしません。

そういう人は本当に霊感商法にハマって、甘い言葉や誘惑に騙され、「自分は間違っていない」と思い込んで、周りの話も聞かず甘い言葉や誘惑に騙され、自分にだけ都合の良い、楽な方向へ逃げる事を正当化するからです。

まずは自分の心身に余裕ができるまで回復した方がいいと思います。
そうでないと今度は自分が霊感商法の加害者側になって、誰かに迷惑をかけて被害者を増やすだけです。


知らないものの価値なら私も皆さんも理解しようとしてきたではないですか。当たり前のように今では使うでしょう?スマートフォン。

昔ならポケベル、PHS、ガラケー、ワープロにパソコン。いくらでもある。
ところがこれが神霊や宗教などに関する事だと即座に全否定から入る。最初から霊感商法やオカルトにハマった危ない人間扱い。

「相手の頭がおかしい」と思う方も多い。でも、私たちは生まれた時からずっと神や仏という概念と一緒に育ったではないですか。

そのくせ自分は初詣に行ったり、誕生日を祝ったり、お祭りを楽しむ。そこにある違いは、「自分が神に関わる事と認識しているかどうか、知識の量の差」だけです。

では縁は?

あなたはなぜその学校の面接に受かったのですか?その会社に就職できたのですか?試験は?

あなたの力の及ばないところで、あなたもずっと「知らない誰か」に助けられてきたではないですか。違いは人という存在を通してか、通していないかの違いだけです。



今回はかなり非現実的な話になりましたが、どうにもならない現実があるからこそ、他の概念から自分の精神を楽にして明日の活力を身につける方法も探してみてはよいのではないか。と、考えました。

今の日本人って、「目に見える世界」しか見ていないから、その「目に見える世界」が問題だらけで行き詰まってきたこの時代に、「目に見える人」に八つ当たりして自分を慰めている人が多い気がします。

本当は気づいている人も多いはずです。でなければカウンセリングや心療内科が何か月も予約待ちになるはずないじゃないですか。

「目に見える世界」の限界に本当は気づいているから、どうにもならなくて自分の心という「目に見えない世界」から何とかしようとしているのでしょう?

私はすごい霊能力者でも何でもない普通の人間ですが、人の思いの先にあるのが神や仏だと思います。
つまり、人はすでに神や仏と繋がっている。でも繋がっている感覚はない。

私もそうです。霊能力などの感覚はありません。霊感のある方々の様々な語り、知識、そして自分自身に起きた経験や関わりの考察や推測から、霊能力者が見えているものを自分なりに理解しようとしているだけです。
そして自分の生活を楽しく、明るくするために活かせたらなぁと考えています。


昔の人が物を大事にしてきたのも、現実的な問題も含め、そう考えたら「苦難の時代も明るい気持ちで乗り越えられる」と考えたからではないでしょうか?

死後の世界や霊魂、神仏を信じている人々も、信じていない人々も、どちらも救われてほしいと考えています。

神仏の存在を信じていようが信じていまいが、良い人はたくさんいるのですから。良い人達が自分の生きている世界に溢れたら、自分も皆も、とっても生きやすくなるではないですか。