私は人に対して「恨むな、憎むな」などとは言えない人間ですが、だからこそ言える事があります。

 

「周りを見ろ」と。あなたの友人や協力者は、あなたが相手への憎しみに心を染める事を不安に思っています。

 

憎しみや恨みに染まれば、あなたの自尊心だけでなく、周りもいなくなります。結果的に加害者の思う通りになってしまうのです。

 

それこそ加害者達は内心では「ざまぁみろ!お前も私たちの仲間だ!」と考えて、自分の正しさにほくそ笑む事でしょう。

 

相手を恨み、憎み続けるのは、相手と相思相愛になるという事です。だからこそあなたの友人や協力者は、あなたがそんな醜い卑怯者と同類になる事を止めようとしているのです。

 

私には友人と呼べる人は1人か2人しかいませんが、私と知り合う人は私が憎しみに染まる事を嫌がります。

 

一期一会といえ、相手に「加害者達と同類になってほしくない。」と、思ってくれる人達が周りにいる事を感謝しましょう。

 

それに私の得た天啓のように、近所の嫌がらせよりも嫌な事があれば、比較すればいいのです。

 

大丈夫。相手はいずれ自分のした行いの報いを受けるでしょう。たとえ亡くなっても、生きている人からの評価は変わりません。

 

生前の行いからは逃げられない

人に嫌な思いをさせた人間は、死後もその噂が位牌や遺骨に付きまとうのです。仮に魂があるとしたら、彼らに安息は訪れません。たとえ魂がなく、死後に何も残らなくとも、彼らの悪行を覚えている人はいます。

 

無になろうと、生者によって否定されます。誰かが思い出すたびに嫌な顔をされるのです。

 

たとえ彼らが無に帰ろうと、魂が存在していようと、彼らは、彼らの悪事にずっとつきまとわれるのです。たとえば植物の種子が黒く腐り落ち、害となり誰も近づけないように。

 

逆に良い行いをして人に思いやりを持って過ごした人間ならば、誰かに受け継がれたり語り継がれて、より良い世界の礎になっていきます。植物の種子が芽吹き、綺麗な花を咲かせ、また新たな種を蒔いて広がっていくように、よき思い出を残された人々に残していくでしょう。

 

それが歴史に残る人物や神話です。しかし、歴史に残らなくとも、多くの偉大な人々がいたからこそ、今、私たちは生きています。

 

だからこそ、恨みや憎しみに染まらないように、恨みや憎しみだけしか残らない人生にならないように、恨みや憎しみの一面を持ちつつ、他の新しい「何か」を探して、生きていきましょう。

 

私は子孫は残しません。自分の代で終わりますが、得たノウハウを書いたこのブログを読んだ方々に、新たなきっかけを残し、その人がいつか、経験や情報から得たノウハウで「知らない誰か」の助けになる日が来るかもしれません。それは私が今まで生きた意味があったという事になります。

 

この世のどんな人間にも、そうやって種子を蒔いて、芽吹くきっかけになっているのです。芽が出る事が遅いこともあれば、芽が出ない事もあるかもしれません。それでいいのです。気楽に生きていれば誰かに影響や安らぎを与えているかもしれない。

 

あなたの行動が誰かの芽吹きのきっかけになるのかもしれません。私たちはたとえ血筋を残さなくとも、伝わっていくのです。難しく考える必要はありません。生きていればいつかどこかでつながっているものです。

 

だから、人への憎しみや恨みよりも、周りを大事に思う心の方が強くなるように、生きて新しい事をやっていきましょう。

 

私の中ですでに家族は「思い出の人」となっていますが、今の「私」がいるのは、時々家族から学んだ事を思い出すからです。思い出せるという事は、「自分の心の中に一緒にいてくれる」という事です。仮に思い出せなくても、行動に彼らから学んだ事が刻まれています。

 

人の心に一瞬の安息が残せるなら、「私」や「あなた」の存在した意味はあるのです。それはとても意味のある事だと、私は思います。