私の近所との関係が改善しない理由の一つとして、「被害者でいたい」という事があります。

私の近所は、私の相続後、一方的に周り近所で結託し、私の陰口や悪口を始めました。私が指摘した際に、一部の人間はやめましたが、半数は(特に老人達)、その後も嫌がらせを繰り返し、加担した人達の中には私を見かけるたびに、鼻で笑い、私が顔を向けるとすぐに顔を逸らして逃げるなどの卑劣な行為を行っています。

彼女たちは一切の反省をしませんし、学習もしませんでした。私の存在が気に入らないので、私の家の明かりがついたり、浴室や台所の音が聞こえたりすると、「もう!」と怒って自分達の作業を止めて家に入ったりします。そしてそれらがなぜか私のせいになるのです。



つまり原因を作ったのは彼女たちが始めたいじめにも関わらず、私が相続して暮らしている事が原因で自分達はこんな目に遭っていると被害者ぶっているのです。


今回はなぜ被害者思考の人が多いのか、解説します。参考になれば幸いです。

目次

女性が被害者を止めない理由

女性が被害者でいると、以下のメリットがあります。

  • 相手より心理的にも立場的にも優位に立てる。
  • 周りから心配してもらえたり、構ってもらえる。
  • 「弱者」として周りを味方につける事ができる。
  • 周りよりも先に行動する事で、まるで自分がリーダーになって、悪に立ち向かうような気分になる。(行動の責任は自分が「被害者になる(表明する)」事で逃れられる。)

※今から書くことは、私の家の近くでそのような井戸端会議が行われているので、聞こえてきた会話からの推測になります。参考程度にしておいてください。

私の近所のいじめ主犯の話ですが、彼女は数年前から私に謝りたいだの、私を認めるような発言をしていたりしました。しかし、一切実行に移しませんでした。

ように、周りからいろいろ相談に乗ってもらえたりする事で、自分の周囲の人間をつなぎ止めていたのです。

当然ですが、いじめ主犯には謝る気なんて一切ありません。なぜなら、そのような話が何度も出ていたにもかかわらず、彼女は一度も私の家のチャイムを鳴らしませんでした。

そしていじめ主犯が開き直る声が聞こえた事もありました。
「だって私、何にも悪いことしてないもん。」

そのような近所とのやり取りがこの数年で何度か聞こえていたのですが、今は聞きません。

いじめ主犯の隣の家とは未だに結託して、私の家の明かりがついた途端に大きな音を立てて自分達の家の雨戸を閉めたりなどの嫌がらせを行っていますが。

いじめ主犯をたしなめたりする声はほとんど聞かなくなりました。

被害者でいるデメリット

女性が被害者でいるデメリットは、

  • 心が成長しない。
  • 周囲の信用を失う。
  • 老後の孤独。
  • 新たな被害者の増加。

被害者も、周りも、誰も良い事なんて一つもありません。周囲を巻き込んでストレスでギスギスした関係を作り出します。

そんな環境を作り出した本人は、自分が被害者だから被害者面をして逃げ続けます。

私の近所は、被害者でいたい人があまりにも多すぎて、縁を切りました。

自分の心身にとても悪影響だからです。

仮に今後もご近所づきあいをしても、この連中は他人の家の事情を勝手に探り、ないなら勝手に自分のイメージだけで噂話を作り、井戸端会議のネタにするでしょう。

そしてまた苦情を言えば近所の誰かが「悲劇のヒロイン」になる無限ループの完成です。

そんな連中と関わっても、良い所は自分達の手柄にして、都合の悪い事は全部私のせいにされるだけなのでお断りです。

現に今、縁を切っても、私がこの町に存在するだけで私のせいにしている「被害者たち」ですから。

好き放題に周りに陰口や噂を広め、取り返しがつかない事態になったら被害者面して責任逃れ。
こんな人間は、社会で信用されません。自分から関わりたいという人も、自分の同類しかいないでしょう。

私の近所のように生涯、自分の行動を反省も改善もしないからあらたな被害者を生み出し続けるでしょう。

そんな人間達と関わっても、ストレスにしかなりません。ある日突然、自分の生活がメチャクチャにされた上、自分がその犯人だと周りからいきなり攻撃され、攻撃する側に隠れてほくそ笑む本物の加害者である人。


そんな人と今後も末永く仲良くしたいなんて人はいますか?いないと思います。

自分の行動には自分の責任が伴う。良い事だけでなく悪い事も責任はついてくるのです。悪い責任だけ人に押し付けるような人間は、周囲から嫌われていくのは当然です。

被害者面して人に押し付け続ける人生は、孤立が待っています。そして、「自分」を支えるものが何もないから周りを逆恨みをするようになります。ますます人は離れていきます。

被害者でいる事に慣れるな

ちなみに、この記事を読む皆様にも、私に被害者でいたい気持ちがあるように感じるかもしれません。実際被害者でいるという事は麻薬みたいなものです。悲劇のヒロインに酔うのは実に気持ちがいいでしょう。

しかし、それは「自分が成長しない。いずれは自分がこの近所の連中と同類になる」という事に気づいていました。

私は近所のような、自分の嫌う人間に自分までなってしまう事が嫌なので、行動して「悲劇のヒロイン」から抜け出すようにしました。

私の場合は実際に被害者ではありますが、被害者の環境に慣れて、被害者でいようとすると、結局はいじめ加害者と立場が逆になっただけで、いじめ加害者と何も変わらないと気づいたのです。


自分が軽蔑する人間達の仲間になりたいとは思いませんでした。だから加害者からも被害者からも脱却する事にしたのです。

周囲がどう評価するのかなど、もう気にしていません。自分の良い所も悪い所も含めて、私は私の人生を生きていくだけです。



被害者でいると周りから慰めてもらえるけど、虚しくなりませんか?心の隙間は一生埋まりません。一生苦しみ続ける人生が待っています。その苦しみから逃れるために他者に加害する。他者は突然心を壊され、新たな被害者になり、同じように周りに被害者を増やしていく。まるでゾンビのように。

その輪を抜け出さなければ、あなたの老後は、あなたの嫌い、軽蔑する人達と同じ末路になります。

それが嫌なら、今からでも良い事も悪い事も、自分の行動の責任を持つようにしましょう。

コメント一覧
  1. こんにちは。興味深い考察ありがとうございます!

    私にとってタイムリーだったのは、丁度、ユングやエックハルト・トールの自我、エゴに関する本を読んでいて、Johnさんの記事は正に実例だったから! 人ごとではないな!と思いました。
    自我に自分をコントロールされると誰かのせいにして、いつまでも同じようなエゴの幻影を見せられることになる。エゴは他人に投影する事で、自分を正当化。それに気づかせない。で、向き合わなければ、運命として向き合わされる…。ひぃぃぃぃぃ〜(怖)自分の人生のシナリオは、戦争映画風、ゾンビ映画風にしたくないですからね。自分の思考、自我を俯瞰して見れる人になろう!と思いました。

    • コメントありがとうございます。自分を正当化するとそれが自分の中で結論になって終わってしまうから振り返らない。だから今後も気づかないから反省も学習もしなくなりますからね。

       

      年を取るほど謎のプライドが出てくるのは私も実感しているので、記事を書いている時にも「自分はどうだろうか。ちょっと頭固くなってない?」と、自分自身と対話して振り返るようにしています。心理学は自分自身の言語化できない感覚を言語にしてくれて、気づきを得るのに助かりますね。

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