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私は以前、神社に参拝しているのは、居心地がいいから時々参拝していたのに、いつからか、負の感情に染まることが増えました。

すれ違う人や、神社で神様に心の中で「しね。」と思ったりしました。考えたくもないのにそんな言葉が浮かぶようになったのです。

原因は妬みである

原因は自分が理不尽な近所いじめに遭って苦しんでいるのに、皆が楽しそうに暮らしている事からくる嫉妬だと、今は分かります。

相続後の8年間の理不尽な出来事に対する怒りや憎しみ、悲しみや苦しみなど、吹っ切れたと思っていた負の感情が抑えきれないくらい、心理の表面に出てきたのだと。
自分でも気づかないくらい、無意識に無視してきたから爆発寸前なのだと。

「こんな事を考えたくないのに、どうしてこんな言葉が浮かぶのだろうか?なんとかしたい。」

と、悩みながら、癒しを求めて家から近所の神社に何日か連続で通っていました。

何かが足りないと気づいているのに、何が足りないのかわからない。モヤモヤしたまま答えを求めていました。

答えは感謝の心

何回か近所の神社に通い、ある日鳥居をくぐった直後、ハッと気づいたのです。

「そうだ、感謝の心が抜けていた」と。

ドス黒い心に対する手段は、自分が恵まれ、助けられている事の感謝を思い出す事だと経験から思い出したのです。

負の感情は本当に思考を狭めますね。以前も経験して克服したのに。克服して安定したと思っていたから、その後の心のケアを怠った結果という事でしょう。
今も嫌がらせは続いているのだから、どうしたってストレスは少しずつ溜まっていくのに。

そしてまた同じ過ちを繰り返さないように、気づいたすぐその場でスマホにメモを取りました。
内容の校正などは寝る前に行いました。以下はそのスクショです。

この2日後、私は日月神示をAmazonで見かけ、興味を持って買うことになるのでした。

今考えれば、都市伝説系のyoutube動画でちょっと見ただけなのに、「どうして日月神示を買ってみようと思ったのだろう。」という疑問は解けました。

その答えは、私の家から近所の神社であり、現在の私の氏神様である神社にありました。

これは本当にただの偶然なのだろうか

あまりこのように神様の話をすると、変な宗教にハマらないかとまた読者様に心配されてしまいそうですが、私は本当に大丈夫です。

初心を忘れないように生きていくつもりです。

現在私が住む家の近所の神社は氷川神社。御蔡神は須佐之男命。

そう、日月神示にも出てくる重要な神様の一柱です。もちろん私は日月神示を読むまで知りませんでした。

「国常立尊」という神が自動手記として降りた話だと思っていたからです。読み進めなければ「国常立尊」が須佐之男命の事だとは知りませんでした。

「これは本当にただの偶然なのか?」と、この記事を書きつつ、導きのようなものを感じています。

負の感情に囚われる→家から近所の氏神様の神社の鳥居をくぐった時に治し方を思い出す(氷川神社、祭神は須佐之男命)→恒常的に負の感情に囚われない方法を知る(日月神示)。日月神示を読んで国常立尊が須佐之男命だと知る。

まぁ予言書として日月神示が真実なのかどうかは、他の高名な霊能者様にお任せします。私は生活の知恵袋として日月神示を読んでいるので。

もしも私に本当に必要ならば、また霊感のない私にもわかる形で示してくれるだろうと考えています。だから今の私にはきっと予言書としての内容は必要ないのです。その時の事はその時に考えます。

日月神示を読んで、一二三祝詞を唱えるようになって以降、負の感情が湧いてくる事は今のところありません。


ちなみにこの神社、私が過去に書いた、自転車を置く場所に飲みかけの缶が置いてあり、アリだらけになって以降行かなくなった神社です。

3連休の時にちょっと行ってきましたが、缶の置いてあった場所付近に新しい苗が植えてありました。今後は他の場所から時々歩いて参拝に行けばいいかと考えています。

私がこの町で神社に近づくのはやはり迷惑がかかりそうなので。

それにしても、「しね」なんて神様に対して思ったのに、罰が当たったと感じるような出来事すら今もない上、対策まで用意してくれたので、「神様って寛容だなぁ」と、自分の器の小ささを学ぶのでした。