今回は日月神示を生活に取り入れてみた結果を紹介します。参考になれば幸いです。

目次

実践している内容

  • 1日1回一二三祝詞を唱える。
  • 食べ物を食べる際、一二三祝詞と同じ文字数を嚙む。
  • その他、初めて読んだ際の内容の一部を実践。

一二三祝詞とは、日月神示に記載されている祝詞。
日本語の濁音などを除く全ての清音の発音であり、言霊として心身の浄化という効果があります。

私はこの言霊の効果を試すことにしたのです。

私は近所からのいじめ(主に陰口や悪口)で心を病みました。それもまた言霊です。悪い効果があるから心に悪影響が出ました。

ならば、良い言霊を使えば、心はどのような影響を受けるのか、確認してみたくなりました。

一二三祝詞

ひふみ よいむなや こともちろらね
しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか
うおえ にさりへて のますあせゑほ れけ

この祝詞は、奈良県にある石上神宮では毎朝唱えられている祝詞です。

日月神示を読み終わった後、試しに一二三祝詞を毎日1回唱え続け、約1か月ほどで丸暗記しました。今ではメモを見なくても唱えられます。本来は1日3回唱えるようですが、面倒でした

ときどき日月神示を読んで、「あれ、もしかしてこの神示の部分ってこういう意味だったのかな?」となんとなく理解する時があります。なので意外と生活も楽しくなりました。

今回この一二三祝詞が生活でどのように役に立っているのか、私の実例を紹介します。

数えやすい

数の分け方が合理的です。

筋トレをする際、頭の中で「1回、2回」と数え、「20,30回」あたりで、「27?あれ28だっけ?本当にその回数だっけ?」と不安になったり、数える事に集中して筋トレが疎かになったりしました。

しかし、一二三祝詞を唱える事に変えて、数え間違いがなくなりました。

一二三祝詞は3,5,7文字で1セット。15文字の3セット+2文字の合計47文字(最後の発音が終わった際の口を閉じた「ん」を入れて48文字とする説もあります。)

15文字を3セット。1文字で1回。筋トレの数を数えやすいのです。

そしてこれは、ありとあらゆる応用が効きます。
余り2文字または3文字の後に2,3回数えれば50回の筋トレになります。実に数えやすい。

私は一二三祝詞を生活に応用する事で、無理なく浄化の言霊を唱えられるし、合理的だと感じました。

しかも一二三祝詞を1日に数回、無理なく唱えられます。効率的!

今後も応用できる範囲で生活に取り入れていきたいと考えています。

声が出しやすくなった

私は基本的に一人暮らしなので、誰とも喋らない事もあるので声の出し方を忘れてかすれる事もありますが、毎日1回一二三祝詞を唱えるので、喉が少し開きやすくなりました。

引きこもり、ニート、無職の方にもおススメです。肺やのどを動かしましょう。

吉夢を見る事が増えた

いわゆる吉夢を見る事が増えたように感じます。

夢の中に野鳥が出てきたりします。ちょっと幸せな気分になります。

ゾロ目を日常的に見る事が増えた

ふと、時計を見ると1時11分や、4時44分など、体感的にゾロ目を見る事が増えました。

今までも時々ゾロ目を見る事はありましたが、「最近多いな。」と感じるくらいにはゾロ目を見る事が増えました。


だからと言って何があるかといえば、何もありませんが。なんか嬉しいですね。

唱える回数が増えると精神が安定する

私は1日1回一二三祝詞を唱えていましたが、筋トレや食事の噛む回数に、心の中で一二三祝詞を唱える回数が増えていきました。

その結果、近所に精神的に乱されることが少し減りました。

他にも影響があるのかないのか分からないのですが、すれ違う人の顔を見た際に、なんというか、「良い表情の人」が増えたような気がします。

謙虚を意識するようになる

私達は年を取るにつれ、今までの人生経験から驕りや固定観念も出てきます。素直になれなかったり意地を張ったりと、相手を不愉快にさせてしまう事もあります。

なぜそうなるのか、というと、「今まで生きてきた自分」という積み重ねてきたものがあるからです。

誇りにするのは良い事ですが、行き過ぎれば傲慢となります。「自分が絶対に正しいのだ」と、正しさを押し付けるようになったりする事もあります。

しかし、「神」という自分よりも上位の存在がいる事で、自分の器の小ささを意識し、自覚し、年を取っても謙虚な心を意識するようになります。

たとえば神道は、ありとあらゆるものを「神」にたとえます。その中には自然災害も含まれます。

私達は自然に敵いません。一個人が雷を止める事ができないように、圧倒的な「力」には祈るほかなくなります。

どれだけ自然に文句を言おうと、誰にもどうにもできないのです。

ならばどうするのか、従順に避難するでしょう。自分の力でどうにもできない事があると、人は謙虚になるものです。

クマや虎に勝てないように、人間は自然界では個人では生き残れないほど弱いのです。だからこそ道具が発明され、戦術が発明され、文化や産業が発展しました。

昔の人は神と共にあると知っていた

昔の人達は知っていました。世の中の全ては神と共にあると。

だからこそ八百万信仰が生まれたし、仏教やキリスト教まで取り入れて現代に伝えられ続けています。

人間世界の全ての閃きやアイデア、発明も昔の人は神から授けられたものだと知っていました。だから「天啓」という言葉が存在したのです。世界の人間は示し合わせたわけでもないのに、自然と世界中で「それぞれの神」を生み出しました。

これが偶然だとでも思いますか?

世界にどれだけ多種多様な国や村、部落に部族が太古の昔から存在して、全く交わりがなかったにも関わらず、「神」という概念を必ず作り、崇めているのです。

人の遺伝子には「神」という存在が刻まれているとしか考えられません。つまり、どうあがいてもこの世に神は存在するのです。

化学が発展してから人は、アイデアすら自らの中から生まれたと考えるようになり、「神」の存在は薄れていきました。

しかし現代、私達は私達の力で発展したと思っていましたが、行き詰まってきたではないですか。

人の理屈ではどうにもならないくらい問題が噴出して、人間同士だから解決しなくていつまでも続く小競り合い。

「神」は私達に、「自分達(人間達)の理屈ではどうにもならないぞ。」と教えるために、この状況まで放ってきたのではないか。私にはそう感じます。「思い出せ」と。

私達人間は今一度、「神」と共にある「原点」に帰る必要があると感じています。本物の神は私達の中にすでにあります。

私達が「感情」と呼ぶものが「神の分け身魂」と推測します。物心がついて、私達は自分を認識しましたが、生まれた時から身体に最初に存在していたのは「感情」です。「理性」は体の成長と共に生まれました。

私達は体が成長するにつれ、感情を制御するようになりました。理性の持った「我欲」に振り回され、滅茶苦茶になったのが今の世の中です。

人よ、神を敬いましょう。記事の締め方が思いつきませんでした。