この書籍を少し読んで、過去のトラウマの克服に応用できないか、考えてみました。


私なりにアレンジしたトラウマを小さくして克服する方法です。

 

私達は過去のトラウマが原因で現在に影響を受けますが、ではそもそも過去とは何か、考えた事があるでしょうか?

 

私もずっと怒りや恨みに囚われていました。ですが、大分薄れています。なぜそうなったのか。その考え方を説明します。

記憶は動画ではなく、静止画である。

時間について考えてみると、過去とは、動画ではなく、静止画であると分かります。

 

たとえば、あなたが幼い頃の楽しかった記憶を思い出そうとする時、どうやって思い出しますか?

 

現時点から1時間、2時間前の事を思い出し続けて、幼い頃まで巻き戻すかのように思い出しますか?

 

違うはずです。あなたが過去を思い出す時は、現在から遡るわけではなくパッ、と過去の一場面を思い出すはずです。決して現在から1秒ずつ記憶を遡って過去のその時点まで巻き戻すような思い出し方はしません。

 

つまり、私達は時間を過去から現在、未来まで繋がった一連の流れと考えていますが、実は違います。人間が存在するのは現在のこの瞬間のみだからです。

 

例えるなら人間の存在は、時計の針が1秒進むごとに1枚ずつ画像保存していくようなものだと考えればいいのです。

 

たとえば今の私は、未来の私が思い出す一場面に過ぎないのです。そして未来の私はこれから成っていくものです。ほら、この文章を書いている間にもう1分先の未来の私になりました。私はこの文章を読み返しています。

同じ場面を体験しても、人は「記憶」を共有できない。

いじめをしている人、いじめを受けている人、黙って見ている人。

 

これらは、皆同じ場面にいますが、それぞれに残る記憶は異なります。

 

つまり、記憶は共有ではなく、自分の中にしかありません。もしも共有されているなら、食い違いなどないのですから、同じ感想になるのです。異なる感想にはなりません。

 

ではもう一つ例を挙げます。親と子供です。

 

生まれたばかりのわが子がお漏らしをしました。親と子供は同じ場面を体験しています。親はお漏らしの記憶を持っていても、赤ん坊はその記憶を持っていません。もしも共有されているなら、子供にも記憶が共有されるはずです。ですが、共有されません。

 

トラウマは感情が作るもの

 

記憶とは本人の頭の中にしかないものなのです。ではなぜ、トラウマは生まれたのか。それは記憶と強い感情が結びついたためです。脳に焼きついた記憶です。

 

トラウマとはWikipediaによると、

心的外傷(しんてきがいしょう、英語:psychological traumaトラウマ)とは、外的内的要因による肉体的及び精神的な衝撃(外傷的出来事)を受けた事で、長い間それにとらわれてしまう状態で、また否定的な影響を持っていることを指す。

と定義されています。

 

私にもいくつかあります。3つほど抜粋します。

 

小学1年生の頃です。同級生に話しかけた私はいきなり殴られました。私は生まれつき色素が薄いので、当時は肌も白く、髪も金髪に近く、色々な偏見の目で見られました。その頃に身についたのが、人に嫌われたくないという感情。自分の意見を言わず、ただヘラヘラしていることでした。

 

小学2年生の頃です。体調が悪く家で寝込んでいた私は、吐いてしまいました。周りには誰もいません。私は母が帰ってくるまでうずくまることしか出来ませんでした。

 

高校三年生の頃です。私は今までのいじめが限界で、初めて不登校をしました。一度行えばもう学校へは行きたくないので、ずっと毎日朝、家を出ては放課後の時間までブラブラしていました。当然、高校にも親にもバレ、私はなくなくいじめられていると言いました。思春期の男子がこの情けない事実を認めるのがどれだけ悔しかったか、今でも覚えています。

 

私も生きていく中で、体にも心にも影響を与えるトラウマをたくさん抱えていますし、それでも生きています。しかし、それは考え方次第で軽くなるのだと、違う分野の知識を垣間見て、少しずつ変わっていったのです。

 

トラウマとは精神的な衝撃とあります。では精神的な衝撃とは何か?一言で言えば感情です。起こった事柄のことではありません。

 

強いて言うならトラウマとは、頭の中の1枚の静止画に、自分でエフェクトを加えたに過ぎないとも言えるのです。

 

トラウマを必要以上に大きな存在としてみる必要はありません。起こった事柄は日常の静止画の1枚でしかありません。感情を交えるから必要以上に大きく強く見えてしまうのです。

要は夜中に見た柳の木を、オバケと勘違いして怖がるのと一緒です。

静止画だからこそ出来る考え方

 

たとえば他人があなたの過去の情けない話を弄ってくるとして、それに対する対処は笑って流すことでもいいのです。なぜならあなたは、過去のあなたとはすでに別人だからです。過去の時点のあなたは、現在のあなたの記憶を持っていません。つまり、共有していませんので別人だからです。

 

あえて言うなら私もそうです。近所のいじめを受けていた「2015年の私」と「2021年2月22日時点の私」は、同姓同名ですが、同質ではないのです。なぜなら違う画像だからです。

 

同じ人物ですらすでに違うのです。他人の言う事など真に受ける必要はありません。静止画でその時に終わったことです。すでに各々の記憶の中に保存されており、いくら言葉にしようとそこには存在しません。あなたから見れば、相手は「無いものをいつまでも思い出してる頭のおかしな奴」という見方も出来るのです。

 

私が近所いじめによるトラウマの影響を乗り越えてきたのは、引きニート日記を見てもらえばわかると思いますが、過去は乗り越えられます。

 

私の方法を取らなくとも、手段はいくらでも自分次第で身につけられるのです。乗り越えられるものだと分かったら、新たなトラウマを今後抱えたとしても、「いつかは越えられるようになるさ」と気楽に構えられます。まずは一歩踏み出しましょう。一歩ずつ踏み出せば、それは歩いているのと同じです。

 

毎日でなくとも、人生が続く限り一歩でも踏み出していれば、それは進み続けていると自分に誇っていいのです。

自分の都合で生きていい。

私は上記の考え方をしてトラウマを軽くしていますが、何も上記の考え方に囚われる必要はありません。

 

上記の考え方をして記憶のトラウマは変えられますが、私は時間移動系のSFが好きな人間です。お気に入りのゲームは「クロノトリガー」や「シュタインズゲート」などの時間系のSFが多いですし、映画の「バックトゥザフューチャー」シリーズも好きです。

 

「それはそれ。これはこれ。」

 

人を不快にしなければ、自分の都合よく使い分けていいと私は考えています。自分の中の線引きは自分にしか影響を与えません。何もかも定義を当てはめて決めていくと縛られていき、最終的によりよい選択を逃す事もあるからです。それは自分の人生を自分で縛り付けることと変わりません。

 

もちろん、これは私の考えなので、人から見れば非難される事もあるでしょう。しかし、一度の人生で、人の目ばかり気にして生きていると勿体ないと思いませんか?

 

私は36歳の現在までに身内の死を7度以上経験して遺体を見てきました。人は亡くなると次第に頭の中の存在になります。そして「過去の人」になります。

 

亡くなると病院から搬送して葬儀会社を選んで段取りや支払いの事を考えます。喪主には締めの言葉を覚える必要もあります。つまり悔やんでいる時間はそこまでありません。

 

日々は続いていくのですから「それはそうと明日の朝ごはんは何を食べようかな?」というのが本音なのです。人は自分の今のことしかみんな考えていません。皆さんもそうではありませんか?色々なニュースを見て、「自分がそこにいれば助けられたかも・・・」なんていつまでも悔やみ続けますか?悔やんでいて何が変わるのですか?

 

そう考えると他人の目を気にして老人になるまで我慢するなんて、バカバカしくなりませんか?

 

考え方なんて誰も正解はないんです。人数が多かろうが少なかろうが、「明確な正しい答え」はないんです。正義も悪も視点によって変わる。正しい=善、間違っている=悪とはならないのです。それは社会を経験すれば誰でも体感します。それでも世の中は回っていくのだと。

 

私の経験について

最後に私の話になりますが、私が相続してから現在まで私をいじめていた近所の主婦達も、私が生まれた頃からの知り合いや、子供の頃からの知り合い達です。ですが、彼女達は私を気遣うことなく、相続した私の人生を楽だと決めつけ、日々陰口悪口難癖の毎日です。詳しくは引きニート日記にて。

 

私個人の感情としては家の皆を亡くし、それでも信用していた人達だからやっていけると思った矢先にいじめが始まり、しかも苦情を言っても誰一人非を認めず、それどころか全て私が悪いという納得がいかない態度をされていますが、私の周りの年寄りは皆同じ考えのようで、私の職業の有無と彼女達のいじめはまったく関連がないと言っても誰も信じません。

 

他人の家庭を勝手に覗き、自分達が気に入らないからと一方的に風評被害を広げる彼女達に正当性はないと、私は思っているのに、自治会長、副会長、地区班長。周り全てのお年寄りは私にも非があるのだという考えです。そして私はこの年寄り達と縁を切ることにしました。考え方が一切会わない人達との人付き合いはお互いに得はありません。一応間を取り持ってくれた自治会長、地区班長に感謝はしていますが、今後関わる気は一切ありません。この町のお年寄り、いじめに参加していた主婦達、それを聞いて参加する旦那方とその息子たち、全て忘れる予定です。

自分自身もいずれこの相続した一軒家を手放すことも考えています。自分の人生の時間を、これ以上彼らを相手にして無駄に使いたくないからです。それにこの町では結局誰も助けてはくれないと実感しました。生まれ故郷がここまで酷い民度になっていて残念です。

 

並々ならぬ怒りと憎悪に、今も時々爆発しそうになりますが、彼女達からすれば、「若いくせに遺産が入って人生をズル出来て許せない」という悪人でもあるのです。身内を亡くし、頼る者もいない私の事情や感情なんて一切入っていませんし、見る気もないのでしょう。

 

ちなみに遺産ですが、引き継いだ家の修繕にも使ったので、2000万くらいで、一生遊べるほどかと言われたら、全くありません。無職の将来真っ暗です。彼女達はドラマの見すぎなのではないかと思います。

 

彼女達を許す気は微塵もありませんが、意見を言うのは人の自由だし、勝手だと思います。だからもう放置しています。さすがに無視できないほどイライラしたら、本人にまた苦情を言いにいくつもりです。それくらい緩くていいのではないかと思います。

 

私は多様性のある社会が来てほしいと願っているので、自分への非難も辛いけど認め、その上で自分の生きる方向へ進むのが、自分も周りも生きやすい社会だと思うので、相手を生活から排除はする気はありません。許せないし、できればいなくなってほしいのも本音ですけどねw